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Dear My Friend

「プールに行こう」

 朝、腹にかけてあったタオルケットを取って起きあがった宮越歩(みやこしあゆむ)は部屋の中の熱にただならぬ物を感じてすぐに窓を開けていた。カーテンを開いた瞬間に差し込んでくる日光によって目に痛みが走り、瞼を閉じたままで窓の鍵を外して開ける。網戸の鉄部分の熱さに一瞬指を離したものの、網戸の隙間から入ってくる空気は幸い涼しく、部屋の中にこもっていた熱が外に出て行く動きを感じてほっと息を吐いた。
 眩しさに慣れたあゆむはゆっくりと目を開く。眼前には雲一つない空から降りてくる光に照らされている町並み。かんかん照りとはこういう状態を言うのかと最近知った単語を思い浮かべた。

「暑い……」

 窓を開けたままレースのカーテンを引いて部屋の中を見えないようにしてから離れる。入ってくる風に揺れる布を眺めながらあゆむは唐突に思い浮かべていた。

「プール……行きたいな……」

 季節は八月の半ば。バドミントン部を引退して受験勉強へと入った時期。暑い中夏期講習に行かねばならない日々が続いていたが、今日はちょうどよく休み。家にこもってどこにもいかないという選択肢もあるが、せっかくの夏休みに勉強をしにいく以外にどこにも行かないというのも寂しい。時計を見ると朝の九時。あゆむは目覚まし代わりに枕元へと置いていたスマートフォンを手に取るとメールを打ち始めた。
 短い文面を作り終えてメールの宛先を複数選択し、送付する。バドミントン部女子かつ三年生だけに送信されるメーリングリストに向けて送付する。むろん、自分にも送信した文面がやってきて、その後は連続して同学年の仲間達から返信がやってきた。
 律儀に勉強する者。親と旅行中の者から断りのメールがあり、最終的にはあゆむを含めて四人が参加することになった。
 自分の打った文面を再度見直しながらほほえむ。

『市民プールに行こう。暑いし』

 本当に短い文面でも、分かってくれる友人達があゆむには嬉しかった。

 * * *

 市民プールは町の中心部から少し離れた場所にある。成城市の中心を貫いていく国道沿いにあり、近くには小学校。あゆむも小学校の体育のプール授業の時に訪れたことがあった。長さは二十五メートルで昔は別の場所に五十メートルプールがあったらしいが、あゆむが生まれて間もなく取り壊されて移転してきたらしい。その際に場所に合わせて小さくなったということだった。

(もったいないなー。五十メートルを一気に泳ぐのって燃えそう……って美緒なら言うかも)

 日掛けになる入り口の傍で考えながら待っている。太陽光が当たらなくてもアスファルトを熱する光は周りの気温を上げているため中で待っていてもいいのだが、プールに入る時に汗をかくくらい暑かったほうがありがたそうだと思ってそのまま立っていた。
 美緒の事を古い世代のスポ根バドミントンバカだと笑っているが、自分もそういった類は嫌いではなくなってきた。

「おーっす。あゆちゃんー」
「きたよ〜」

 うっすらと額に浮かぶ汗をハンカチで拭いていると、自転車で女子二人がやってきた。一度駐輪スペースに寄って置いてから再度早足で近づいてくる。

「やっほ。お久しぶり」
「やー、確かに久しぶりかもね」
「バドミントン引退したら勉強ばっかり」

 桐木昌子と祥子。双子の姉妹は何かを対称にする癖があるらしい。過去にはシュシュやバドミントンをしているときに着けているリストバンドを左右対称にしていたり、リボンの色を黒と白にしてみたりと当人達でいろいろ試行錯誤しているらしい。
 今は肩口から少し背中まで垂れる長さの髪の毛をサイドアップにしていた。その方向が姉妹で逆。いつもの通り姉である昌子が右で祥子が左側に結んでいる。どちらも童顔でくりくりとした目が印象的であり、更にクラスでも中心になって盛り上げる役所。男子にも人気があることをあゆむは知っている。知らないのは当人達だけ。

(漫画みたいな入れ替わりができそうね)

 そう言って昌子に向けて話しかけようとしたが、あゆむは違和感を覚えて踏みとどまる。不思議そうに首を傾げた昌子と祥子二人を交互に見て言った。

「二人、入れ替わってるでしょ」
「ばれたー」
「さっすがあゆむ」

 本当に入れ替わってるとは思わなかったあゆむはほっとした。
 やりとりを続けていると三人目がやってくるのがあゆむの視界に入ってきた。黄色いプリントTシャツにジーンズにスポーツ靴。あとは水着が入った鞄だけ。シンプルな格好がやけに似合う朝比奈に、あゆむは思わず嘆息する。初デートの時に服をコーディネートしたが、普段の服装がすぐに変わるとは思えない。

(デートの時だけ気合いを入れるようになったことだけでも成長かな)

 朝比奈は桐木姉妹と同じように自転車を駐輪場に置いてからやってきた。汗が流れて、Tシャツも濡れている。暑いねと言いながら胸元を掴んでバタバタと風を送り込んでいた。

「みおっち。おひさしぶりー」
「久しぶり、祥子」
「え、分かったんだ」

 自分達でしかけていた罠を簡単に見破った朝比奈にあゆむも含めて驚く。朝比奈は三人の視線を受けて逆に頭をひねった。

「え? 何が?」
「今日は右にしてるのが祥子で、左にしてるのが昌子なんだよ」
「ああ、そうなんだ。そういえば逆だね」

 一番特徴的な部分が後回しであることに再度、全員が驚いていた。どうやって自分達を見分けているのかと聞くと朝比奈は空に視線を向け、腕を組みつつ考えたあとで言った。

「全体の雰囲気で。昌子と祥子で微妙に違うんだよ。しゃべり方の癖とか仕草とか」
「えー、どんなのどんなの?」
「どんなのって具体的に言われると分からないかな……」

 あくまで「総合的な雰囲気」で見分けているという朝比奈。あゆむも完全にではないが、言いたいことは分かる気がする。あゆむが直前で見分けがついたのも「全体的な雰囲気」が異なっていたことだ。曖昧なだけに明確なサイドアップにしている髪の毛という点に影響を受けてしまったが、朝比奈は髪の結び目を気にしないだけ流されなかったのだろう。

「さ、早く入ろうよ。暑くてTシャツがベトベト」
「セクシーでいいんじゃない?」
「もう。止めてよあゆ!」

 赤面して嫌がる朝比奈を後目に、あゆむは先頭で中へと入った。自動ドアの内側では塩素の臭いが冷風に乗って鼻孔を擽る。久しぶりに来るプールでも、イメージはあまり変わらない。四人は受付で利用料を払うと早速更衣室へと向かった。縦長のロッカーを隣同士で取り合って、中にあるハンガーに衣服を掛けていく。朝比奈は頭から被って体を隠すタオルを持参して水着をつけようとしていた。

「恥ずかしがることもないじゃんー。女の子同士でしょ」
「……そう言ってくるあんたが一番危険なんだけど」

 顔を赤くして手を開いたり閉じたりしながら迫ってくる昌子を警戒する朝比奈と、首を捕まえて朝比奈から引き離す祥子を見ながらあゆむは口には出さずに和む。

(やっぱり、こういうのいいな。もっと早く遊べば良かったけど仕方がないか)

 部活に打ち込んだ二年半を否定はしない。校舎の次に体育館に一番通っただけで、ないものねだりをしているだけなのだとは分かっている。それでも、あゆむはバドミントン以外でもっと仲間達と遊んでみたいと思った。自分の世代の仲の良さには自信があったから。

「先行ってるね」
「あ、あゆ! いつの間に水着着たの!?」
「あんたらがじゃれ合ってる間によ」

 ロッカーの鍵は手首につけられるリストバンドに繋がったもの。左手に巻き付けて更衣室から出たあゆむは男子更衣室と共通の通路を抜けてプールのあるフロアへと足を踏み入れた。
 直前にあるシャワースペースは体を水に慣れさせる場所。あゆむは髪の毛をまとめて手にした水泳キャップを頭に被るとシャワーの蛇口をひねった。落ちてくる温い水が体を包む水着を濡らしていく。市民プールに行くのに可愛らしさを追求した水着など着るつもりもなく、スクール水着から少し可愛らしくなった程度の水着が濡れていく。全身を濡らしてからプールフロアに入る頃には後方から朝比奈達もなだれ込んできた。

「わーこういうのあったね!」
「ひっさびさ!」

 聞き分けがつかない歓声を上げる双子の脇を抜けて朝比奈は空いているシャワーで手早く体を濡らすとあゆむへと近づいてきた。

「はぁ。泳ぐ前から疲れたよ」
「……美緒はやっぱりスタイルいいなぁ」

 あゆむの言葉に胸元を隠して後ずさる朝比奈。朝比奈の水着もあゆむとほぼ同じデザインで胸元から腰まで布面積が多いスクール水着に近いもの。ただ、胸のボリュームはあゆむのほうがあった。スタイルと言っているのはアスリートとしての体つきのことで、あゆむは感嘆のため息を漏らす。
 バドミントン選手として推薦を取るほどの朝比奈の体つきは女子にしては筋肉質だ。ただ、大げさに主張はしておらず、女性らしい曲線の中に力強さがある、とあゆむは素人ながら思っている。胸が同世代より小さいのは胸筋が発達しているからでバドミントンをするには必要だろう。

「胸は好きな人に揉まれたら大きくなるって言うし、遊佐にしてもらったら」
「それ以上言ったら、怒るから」

 顔が真っ赤になり、羞恥心の限界を超えて涙目になった朝比奈を見てあゆむは両手をあげて謝った。
 入る前からシャワーで水浸しになった桐木姉妹と共に準備運動を終えて水に入ると、軽い運動で暖かくなった肌に水が染み渡るような錯覚をあゆむは得た。首元まで浸かった体の力を抜いて、少しの間だけ水に身を任せていると、隣からすぐに桐木姉妹が飛び出してどちらが先に二十五メートル先に到達するか勝負を始めた。バタ足から水しぶきをあげていく二人を見ていると、隣に朝比奈が水に体を沈めつつやってくる。静かに浮かび上がって空気を求めて口開く時に小さく声が漏れた。

「最後の休息かもね」
「そうかもしれない……と思ったけど、案外それさえも考えてないかもね」

 水と戯れる姉妹を眺めていると、無駄にはしゃいでいるのはこれから半年くらい向き合うことになる受験勉強から目を逸らしている結果にも見える。朝比奈は真面目に言っているが、あゆむは何も考えずはしゃいでいるだけだろうと考えた。真夏の暑い日に冷たい水に浸かっているのだから楽しいに決まっている。二人の姿は混じり気のない楽しさを体現しているように見えた。
 しかし、自分の考えは朝比奈へと伝えなかった。聞いたのは別のこと。

「遊佐とのデート。続けてる?」
「ん? うん」

 先ほど顔を赤らめたときとは別の恥ずかしさで頬を染めた朝比奈は、プールサイドに背中をつけて俯く。全国大会が終わったあとに遊佐と人生初めてのデートをした朝比奈の報告を受けてからまだ数日。一回行けば数日は十分のように思えるが、尋ねてみて返ってきた答えにあゆむのほうが驚く。だが、ピンとくるものがあって、朝比奈へと言った。

「美緒。バドミントンの練習はデートとは少し違うかも」
「え、そ、そうかな」

 二人とも勉強はしつつもバドミントンのほうで高校に入学するのは変わらない。だから受験勉強で体がなまらないようにお互いに練習相手となって支え合っている。二人で市民体育館で練習というのは中学入学から少しした段階でやり始めていたから、さして珍しいことではない。しかし、朝比奈がそれを「デート」だと言ったのはひとえに心境の変化だろう。

「ま、でもいいんじゃない? 美緒達は美緒達のつきあい方ってありそうだし。それに、二人の練習をデートって言うようになった美緒可愛い」
「もう……からかわないでよ」

 拗ねたように朝比奈はあゆむから離れて泳ぎ出す。進行方向から桐木姉妹が引き返してきてデッドヒートを繰り広げているため、進路を多少変更して二人の隣を抜けるように右側へ寄った。あゆむも朝比奈の後ろにつくようにして泳ぎ出す。足でプールの端を蹴り、心地よい抵抗があゆむを阻むが、それを両手でかき消していく。腕と足。全身を使って先へと進んでいくと自らの力で道を切り開くかのような高揚感がある。咄嗟にあゆむは速度を上げて朝比奈の隣へと並び、先行する。勢いそのままに朝比奈より先にゴールしようという意志を示すと、朝比奈も勝負を挑まれている事に気づき、速度を上げた。

(疲れる……体、重い!)

 速度を上げると水の抵抗が大きくなり、あゆむの足と腕が悲鳴を上げた。それでもどうしてか、気を緩めることをせずにただひたすらプール端を目指す。隣を見る余裕はなかったが、朝比奈の水圧を感じる。水をかく腕が当たらないようにという配慮をする余裕もなく、あゆむは強引に腕を伸ばして端へとタッチしていた。

「っぷはあっ!」

 水から顔を上げて両腕をプール端につけると、荒い息を短い感覚で吐き出していく。肺が収縮してたくさん酸素を取り込めないかのようだ。目がチカチカして、周囲の様子も分からない中であゆむは隣から水をかけられた。

「おつかれ」

 自分よりは息を乱していない朝比奈にあゆむはただ頷いて反応する。どちらが先に付いたのか問いかけようとしたが言葉にならない。視線で疑問を投げかけてみると朝比奈も首を振った。

「しょう、はいっ……つか、ず……かな」
「そうだね。でもいきなりどうしたの?」
「しょうどうてき」

 呼吸が収まってきたところであゆむは天井を向いて思い切り息を吸う。体の隅々まで酸素が行き渡るように吸った後、大きく吐き出して落ち着かせた。

「こんな疲れるのはもういいや。のんびり楽しもうよ」
「そだね。って、あの姉妹はそんなのじゃないみたいだけど」

 朝比奈が苦笑しながら、自分達へと向かってくるように競い合っている桐木姉妹を見ている。朝比奈の隣で同じように視線を向けながら、あゆむは別のことを考えていた。咄嗟に勝負を挑もうとしたのはどうしてなのか。

(なんだろ。急に、美緒に勝ちたくなった、のかな)

 浮かんできたのは朝比奈よりも先に向こう側に着きたいという衝動。端的に言えば、朝比奈の前を行き、ゴールしたかった。ならば、どうして勝負したくなったのかと問われるとすでに水の中にとけ込むように霧散してしまっていた。

(ま、いっか)

 消えてしまったものは仕方がない。大事なことならば、いつかまた思い出すだろうと割り切って、あゆむは再び水にその身を任せていった。
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