次々と車が流れていく道路を、俺はじっと見つめていた。
 俺を訝しげな視線で見ながら人が通り過ぎていく。
 そんな事は気にせず、気づきもせずに俺は手に持った花束を道路の傍に置いた。
「ちょうど一年前に……か」
 どこかで聞いたことのある歌を口ずさむ。
 花束を持っていた手と反対の手には携帯電話を握る。
 裏に貼り付けてあるプリクラは、否が応にもあの日の事を思い出させた。
「忘れるよりはましだな」
 俺は胸の底からくる痛みを感じる。
 突き刺す痛み。
 けして現実ではない、架空の痛み。
 しかし、俺には現実だった。



『Fragment memories』

《#3 Around the mind》


「就職か」
「うん」
 里美は心底嬉しそうに言った。
 確かに近頃は不況で就職口は見つからないって言うが。
「伸治は大学院進むんでしょ?」
「ああ」
「どうして不機嫌なの?」
 そりゃ、決まってる。分からないかなぁ。
「就職先はこの地域じゃないんだろ?」
 里美は俺の言いたい事が分かったようで、口に手を当てて体を後ろに少し引いた。
 言う事に困った時にする癖だ。
「寂しがりやだね。伸治」
 里美の指が俺の額を突いた。
「……俺は遠距離に自信が無いんだよ」
 つい最近も、遠恋をしている友人が別れたと言って自棄酒に付き合わされた。
「……私だって不安だけど、まあなんとかなるよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんよ」
 よく分からないが、何となく安心できる。
 俺が里美を好きになった訳だった。
 いつも俺が沈んでいる時に限って、その事と関係ない事をして気を紛らわせてくれる。
 後で訊くとだいたいは意識せずだった。
 いつのまにか、本当に心が通じ合ってるように思えた。
「と、言うわけで私の就職祝いをしてよ」
「……それが目的か。いいよ」
「ありがとー!」
 里美の笑顔を見ていると、距離なんて関係ないように思えた。
 自分達は別れる事はない。
 絶対、心は一つだ。
 ドラマの中で言うような台詞が、俺達には自然と言える気がしていた。


 花束を置いて手を合わせた後、俺は傍の喫茶店に入った。
 いつも使っていた奥の窓際の席。
 そこに座って外を眺める。
「ご注文は?」
「コーヒー、一つ」
 店員の顔も見ないでいつも飲んでいた物を頼む。
 店員が去っていく足音を耳に微かに捕らえている。
 もう、この窓から見るものはないのに。
 もう、この席に座る意味などないのに。
 もう、反対側に座る人はいないのに。
 何故、俺はここにいるんだろう?


 里美が就職してここから離れた後、俺は大学院の勉強に追われていた。
 自分の夢。
 生物学で大発見をして、日本を震撼させる。
 冗談に聴こえるような馬鹿な事。
 しかし、俺は本気だった。


『それでさ、同僚の男がね、私を誘って来るんだよ。何度も何度も。
で、私は言ってやったの! 私には最愛の人がいるんだって!』
「ははは……豪快だな。相変わらず」
『だってさぁ。私がその人の事、好きじゃないって言ってもさぁ、なら好きにさせるよとか言って来るんだよ。はっきりと言わなくちゃ分からないよ……』
 里美は就職しても大学の時のまま。
 成長していないって悪い意味じゃない。
 こういう性格は里美の個性だ。
『……伸治、疲れてる?』
「……ああ」
 こういう時に隠し事はきかない事も知っている。
『勉強、大変なんでしょう? 電話、しないほうがいいかな?』
「そんな事はないさ。里美の声聞いたら、元気出るよ」
『ほんと!』
「ああ」
 その言葉は事実だった。
 大好きな人の声ってものは、何よりも薬になる。
 それから他愛もない会話を続けてから電話を切った。
 電話の回数が減っていったのはその辺りからだった。


「お待たせしました」
 店員が持ってきたコーヒーに、窓の外に視線を向けたまま口をつける。
 外は人が流れていく。
 どこまでも、何処までも続いていた。


「久しぶりに会うと、かっこいいね」
「久しぶりだからだろ」
 里美は照れもせずに言ってきて、俺は内心の照れを隠すのに必死だった。
 間を空けるためにコーヒーを一杯飲む。
 待ち合わせに使う、いつもの喫茶店。
 今の時間はあまり人がいない。
 久しぶりに会った里美は――綺麗になっていた。
 やはり社会というところは第三の成長の場所なんだな。
 変な表現だけど。
「何? 惚れ直した?」
「ああ」
 今度は俺が照れもなく言う。
 すると里美は顔を明らかに紅潮させた。
「もう! 恥ずかしい事言わないで!」
 里美はそう言ってアイスティーを飲み干した。
「すみません。もう一杯お願いします」
 遠くにいる店員に言ってから俺に再び向き直る。
「なあ、俺達……」
「何?」
 まだ顔が紅潮している里美に俺はある事を言おうとした。
 しかし、口にする事はできない。
「何?」
 再び訊いてくる。俺がどぎまぎしている内に店員がアイスティーを運んできた。
「……どこかに遊びに行くか」
「? ……そうだね」
 里美の表情に疑問符が消える事は、その日はなかった。


 今思えば、あの時言っておけばよかったと思う。
 しかし、別れが確実なものならば、言わないほうが良かったのか。
 答えは出ない。
 結局今、俺ができるのはここで、コーヒーを飲む事だけだった。


「折角三ヶ月ぶりだってのに、雨か」
 俺はいつもの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
 いろいろお互いの都合がつかなくて、やっと会えると思った日はあいにくの雨だった。
「今日こそ、言うか」
 俺の手の中には小さな箱がある。
 結婚指輪。
 むろん、レプリカだ。
 本物は大学院を出てから渡すつもりだ。
 なんだかんだ言って遠距離恋愛は不安だった。
 レプリカを使ってまで、彼女の心を繋ぎとめておきたかったのだ。
 いつものように窓から外を見る。
 視界が悪い。
 久しぶりの大雨だった。
 道を歩く人も皆無だった。
 車さえも、なかった。
 時計を見る。
 時間は待ち合わせの時間を少し過ぎていた。
「珍しいな」
 思わず呟く。
 何か彼女の身にあったのか?
 嫌な想像が頭をよぎる。
 しかし、それも彼女が反対車線の道路に姿を表した事で霧散する。
「急がなくてもいいのに」
 悪い視界だったが彼女は明らかに急いでいた。
 時間に遅れているのだ。
 時間に厳しい彼女が焦るのは当然だったのだろう。
 里美は一瞬屈みこんでから一気に道路を渡った。
 そこに、ちょうど走ってきた車に気づく事なく。
「え……」
 鈍い、重い音がしっとりと濡れた空気の中でもはっきりと聞こえた。
 気づけば、里美が倒れていた。
 雨に濡れた道路にじんわりと赤いモノが広がっていく。
 投げ出されたてさげのバッグ。
 赤い傘。
 そして、包装された何か。
「人が跳ねられたぞ!」
「きゃあ!!」
 店内の客が叫び声を上げている。
 ナンダアレハ?
 サトミハドウシテアンナトコロデネテイルンダ?
 ミンナドウシテサワイデイルンダ?
 耳を劈く、嫌な音がした。
 それが雷の音だと気づいたのは眼前が光ったからだった。
 俺にはそれが、全てが崩壊する時の音のように思えた。


 即死だった。
 葬式は静かに身内だけで行われる事になり、俺は里美の骨を拾う事はできなかった。
 しかし、数日後に呼ばれた時に、一つの箱を渡された。
 それは包装紙に包まれていた。
「誕生日……おめでとう?」
 そうだ。
 あの、久しぶりに会う日は俺の誕生日だった。
 レシートから彼女が遅れたのは、俺への誕生日プレゼントを買うためだと分かった。
 包装紙をとると、一つの箱。
 開けると、二つの指輪があった。
 一つのメッセージカードとともに。
『いつまでも、一緒に』
 俺はその場に泣き崩れた。


 俺は店を出ると再び花束の前に来た。
 指に填めた、二つの指輪を見る。
 指輪には二人のイニシャルが彫ってあった。
 手を握り締めて胸に寄せる。
 まるで神に祈るように。
 回る、廻る、季節の中で、俺だけ一人留まる事はできないだろう。
 辛かったこの思い出も、やがてはセピア色に色褪せていくのだろう。
 しかし、この指輪だけは変わらない。
 この場所が、思い出が、自分自身が変わっても。
 再び、俺の心はこの場所に帰ってくる。
 廻り回る、季節と共に。
 ポツリ、と鼻先に雫が当たる。
 空を見ると、どうやら雨が降り出すようだ。
 俺はその場所から早足で去った。

『いつまでも、一緒に』

 彼女の最後のメッセージが、頭の中を回っていた。


『Fragment memories』
《#3 Around the mind》closed