Fly Up! 94
橋本より一瞬早く駆け出した林は、シャトルが下につく瞬間に上にシャトルを跳ね上げ――
(!?)
通常ならば、ここまで追い込まれているならばシャトルを上げて体勢を整えるだろう。
しかし、林の次の手を読めたのはこの場では橋本だけだった。
武から離れ、一年の間少しずつダブルスのパートナーとしてお互いに認め合ってきたからこその意志の連携。
橋本は後ろへと向けていた視線を前に戻し、その場でラケットを掲げていた。
橋本の目に見えるのは驚いた顔の二人。阿部と小谷双方とも呆気に取られている。思考の隙に入りこむように林が前に置くように落としたシャトルは阿部達のコートにあった。
ロブではなく、ドロップショット。
林の選択したのは、あくまで前に落とすことだった。
「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
無得点のままサービスオーバー。阿部達の脳裏に何があるのか橋本には想像に難くない。
結局、この場を支配しているのは阿部でも橋本でも、小谷でもない。
愚直なまでに前に落とし、シャトルを上げない。
相手を裏をかく者達を欺いたのは、基本に忠実なショットだった。
「ナイスショット。林」
「一本いこう」
シャトルを持つ橋本の手に力が篭る。力みではない、ほどよい力で掴んだシャトルコックを伝って無機物のはずのシャトルにエネルギーが満ちるようだ。
(いつトリックショットを使うか分からせない。それが阿部さんの作戦。なら俺は)
橋本のサーブ。しかし、通常用いるバックハンドではなく反則ぎりぎりまでラケットヘッドを上げて、フォアハンドで構える。
バドミントンでは腰の高さよりラケットヘッドが上の場合は反則となる。逆を言えば反則ぎりぎりまでにすればほぼ平行にサーブを打てることになる。
「一本!」
鋭く一声。そこから一瞬の溜め。失敗すれば反則だが、成功すれば相手のバランスを確実に崩せる一手。
林のように堅実なパートナーがいるからこそ、失敗を恐れずに賭けに出られる。
そして、自信は成功率を上げるのだ。
「はっ!」
シャトルを離すのと、ラケットがほぼ平行に振り切られるのは同時。シャトルはネットの上すれすれを飛んで行き、阿部の顔面へと向かう。
阿部は身体を捻って避けながら打とうとしたが、その分だけ振りが遅れてしまい、シャトルを後ろに逃す。
「アウト!」
思わず、というように叫ぶ阿部。速度だけならば後ろのサービスラインを超える。
しかし、そこからシャトルの勢いは減衰した。
急に落ちたシャトルはラインの手前に着地する。アウトと言った阿部が信じられないという顔でシャトルの行方を見ていた。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
林のコールに我に返り、シャトルを取りに行く阿部。足取りは軽やかだ。それが空元気なのか本当に些細なことと割り切っているのか橋本は分析する。
(おそらく多少は驚いただろうけど、種が割れれば問題は無い。奇襲は二度通じない)
今のサーブがアウトにならないならば、打ち返せばいいだけ。虚を突いただけで、来ると予想出来れば迎え撃つことは可能になる。試合慣れしていない選手ならまだしも、阿部や小谷は幾度も未知の相手と戦ってきた。対処への心構えも出来ているだろう。
「一本!」
だからこそ、橋本は次のサーブも同じように打った。次に続けて打ってくるかどうか。そこを見極めきれない第二打だからこそ、付け入る隙があると。
しかし、小谷は体勢を崩しながらもヘアピンでシャトルを前に落とす。当てるだけの動きだが、シャトルの勢いを利用してコート右端へと綺麗に落ちていく。
それでも橋本は楽に追いついた。利き手側だけに反応もしやすく、ラケットを伸ばしてストレートにヘアピンを放つ。
シャトルに向けて小谷が前に飛び込んできたが、打たれたシャトルはネットに引っかかっていた。
「ポイント。ツーラブ(2対0)」
(後ろにのけぞった分、前に行くのが遅れたんだな)
サーブを打ち返した時の体勢の崩れが、少しだけ前に詰めるのを遅らせる。それもまた橋本の目的。このサーブを攻略するにはまず遠くにロブを上げるしか手は無い。慣れれば体勢を崩さず打ち返すことが出来るかもしれないが、一ゲームのみという短い時間の中ではどうか。
(阿部さん達なら十分やってくるな)
ならば次の手を考え出すまで。常に橋本の思考は回り続ける。
それは阿部も同じことだったろう。交差する視線は相手が何を考え、次に何を起こすかを見つけ出そうとするように鋭い。
「一本!」
次のサーブはロング。
しかし構えはバックハンドに戻してふわっと上げるようなシャトルの軌道となった。受けた小谷は、難なくクリアを飛ばし、林がドライブで小谷に打ち返すと、二人の間でドライブ合戦が繰り広げられた。
数度往復するシャトル。互いに自分が上げさせるという意志の下、攻防を繰り広げていく。
先に折れたのは、小谷。
「くぉ!」
胸元に鋭く飛び込んできたシャトルをたまらず打ち上げて、小谷と阿部は左右で同時に腰を沈めた。橋本は前に陣取り、林の次の手を待つ。
(林、凄いよお前……!)
まだ始めて一年と少し。同じく初心者から始めた杉田と比べると見劣りするが、それでも十分な成長力。小学校時代を費やして得た橋本の実力をすでに上回っている男に、嫉妬にも似たような感情が宿る。
それもまた、すぐ勝つための力に変換されるが。
(嬉しいじゃないかよ。そんなやつと組めて)
弾ける音と共に放たれたのはドライブ。浅葉中バドミントン部の誰よりも、鋭く平行に相手コートへと突き進むドライブ。背が足りず、角度あるスマッシュを打てない林が選んだ武器。
どんな状態でも力あるドライブを打つ。
どうであろうとシャトルは落としていく。
ダブルスに特化したプレイヤーになることが自分の成長する近道だと定め、たどり着いた場所。
「はっ!」
小谷が打ち返したシャトルへと飛び込んで、橋本はネット前に落とす。勢いがあったためラケットを振り切れず、ただ触れただけだったが効果は十分だ。慌てて阿部が前へと詰めてロブを上げる。
まだ橋本達の攻撃は続く。今度は少しだけ角度が付いたシャトルが阿部の胸元へと伸びていく。
相手の肩口、あるいは真正面の胸を狙うという定石を打ってくる林。至極読みやすく、カバーすれば主導権を握れるはずだった。
しかし、定石だからこそ、そうしろと指導されることには意味がある。分かっていても返しにくいからこそ、定石となるのだ。そこを攻めるために常に練習してきた林のショットは、いつしか阿部達レギュラーさえも危うくなるほど研ぎ澄まされていた。
「なろ!」
阿部は身体を強引に捻ってシャトルにラケットを当てる。そのままクロスヘアピンとなって落ちていくところには橋本が付き、プッシュで相手に押し込んだ。
「ポイント。スリーラブ(3対0)」
「よっしゃー!」
「いぇい」
林へと向けてガッツポーズを取ると、ノリきれていないガッツポーズで返される。橋本は笑いながら戻り、呟いた。
「これからも頑張ろうな」
「当たり前だよ」
二人の笑みが、重なった。
* * *
「ラスト一本!」
「一本!」
橋本の咆哮に林が応える。上下していた肩が収まっていき、止まった瞬間にラケットが動く。
ショートサーブに飛びつく阿部は、橋本の位置を確認した後でちょうど二人の間にシャトルが落ちるように打つ。試合の終盤に来て、この試合一番の力加減で打たれたシャトルは阿部の期待に応えるように二人を困惑させ――
「はっ!」
困惑させはしなかった。体力が落ちて思考力も低下してくる頃ならば、どちらが打つか迷うような打球。だが、橋本と林は迷うことなく双方の役割を決めていた。林はただ前を向き、橋本の打球から生まれる次の手に反応するために集中している。
橋本は声を出し、強打を放つと見せかけてネット前にシャトルを落としていた。阿部は一瞬身体を後ろに戻しながらも、十分間に合う速度で前に詰める。
マッチポイントに追い詰められるまで、数回引っかかってきた手に意識も身体も耐性がついてきている。
「うらっ!」
橋本に対抗してか声を出し、阿部はシャトルを思い切り打ち抜いた。林が前にいることもあるだろうが、同じ手を使うかどうかという心理的な揺れでフットワークを遅らせようという思惑もあった。
(だろうさ!)
だからこそ、橋本は躊躇無く後ろに下がっていた。試合を通して橋本が見出したのは、阿部との思考の類似。強い相手に勝つために、彼らよりも考え続けて試合をすることは、橋本にも通じるもの。
(阿部さん。ありがとうございます)
最後の試合。自分と似たタイプを試合をすることで、橋本自身手ごたえを感じていた。
これから浅葉中の主力メンバーとしてやっていける自信を。
林と共に戦える自信を。
◇ ◆ ◇
(良かった。こうして試合が出来て……)
一方、林も前を守りながら橋本と同じように感じていた。対戦ペアは鏡に映したかのように自分達とプレイスタイルが似ている。更に実力が上という、理想の相手。自分達がこれからプレイヤーとして通用するかを試すには絶好のチャンス。そこを、林達は最大に生かした。
(小谷さん。ありがとうございます)
橋本が阿部に感謝するように、林もまた小谷に心の中で頭を下げる。それを見計らったように、橋本のスマッシュが小谷を襲い、シャトルが甲高い音と共に舞い上がる。
「林!」
シャトルはネット前に落ちてくる。ちょうど林の真上。そこを叩き落とせば橋本・林ペアの勝利。
(これで、終わる)
垂直に落ちてくるシャトルをミス無く叩き落すのは、実は難しい。無駄に落とそうという意識が強くなり、力んでネットに引っ掛けてしまう。林も例外ではなく、振り上げた左手に力が入る。
(やっば)
そう思ったとき、ふと視線が流れた。日頃から吉田や橋本に言われていた相手の位置を確認するための動きだったが、林の目は小谷の真っ直ぐに見つめる視線と交差していた。
「……ラストッ!」
身体の中に溜まった張り詰めた空気を吐き出して、林は後ろに飛ぶ。シャトルの打点を垂直から斜め上に変えて、ラケットを振りぬいた。
バンッ!
シャトルは阿部と小谷、二人の間に落ちていた。
床とぶつかりあった音が空間に溶けてしばらくの間、誰もが動かない。
次の言葉を放ったのは。
「ポイント。フィフティーンイレブン(15対11)。マッチウォンバイ、橋本・林」
阿部の一言が場の空気を氷解させる。周りで見ていた武達が拍手を重ね、健闘を称えていた。
「いやー、強くなったなー」
口調は負けた悔しさなど微塵も感じさせない。強がりではなく、心から林達の成長を楽しんでいるようだった。
「ありがとう、ございました」
それが分かったからこそ、林の口からは自然と言葉が漏れ。
「これからも頑張ってな」
小谷がそう言って差し出した手を、しっかりと握る。伝わる熱は今繰り広げていた試合の熱気。一ゲームだけとはいえ、確かに掴んだ勝利。
林の目からは自然と涙が溢れていた。
「……は、い……」
感情が溢れて止まらない。何かを託された瞬間。今は小さいけれど、大きくなろうだろう何かを、林も橋本も受け取った。
「橋本ー。お前も頑張れよな。林に抜かれるかもよ」
「気をつけまーす」
阿部と橋本は試合をしていたことなど忘れたように、砕けた会話を繋いでいる。涙に溺れながら林は思う。
(あれはあれで……別れの儀式なのかもね)
最後まで笑って終わる。正に阿部らしい。橋本らしいと思った。
「さ、次の試合あるから戻ろう」
「はい」
瞳は涙に濡れていたが、もう流れることは無い。
第一試合。橋本・林対阿部・小谷
橋本・林ペアの勝利。
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