Fly Up! 365

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 ――時は少しだけ流れ。
 四月の第一週。
 浅葉中の体育館は閉め切られていても、扉一枚隔てた先からは豪快なシャトルを打つ音と咆哮が響いていた。

「らあっ!」

 渾身の力を込めて吼えた武がスマッシュを解き放つ。
 ジャンプして高みから打ちおろしたシャトルは、相手の前方に突き刺さり羽を撒き散らして吹き飛ぶ。打ち込まれた側は口笛を吹き、シャトルをラケットで拾い上げると変わりを要求した。
 審判として立っていた橋本が新しいシャトルを筒から出して、サーブ位置に立っている吉田へと放る。吉田は受け取ってすぐにサーブ体勢を取り、武は後ろで腰を落としてプッシュに備えた。ネット前の向かい側にいる相手には容赦はしない。スコア的には勝っていても、油断すれば負けるということを言い聞かせて。

(そうだ。俺も吉田も。誰が来ても負けない)

 吉田がサーブを打つと相手――金田が綺麗にプッシュを放つ。
 しかし、その軌道は武にとっては十分取れる場所。むしろ一瞬早く移動したため絶好のタイミングでドライブを打ち返した。ラケットを伸ばせば届く距離だったが、金田は触ることが出来ず、後方にいた笠井も何とか触れた程度でネット前に上がった。
 チャンスに飛びついたのは吉田。

「うぉおおあああ!」

 気合いのこもった声と共にラケットを振り下ろし、吉田はシャトルを叩きつける。金田も一歩も動くことが出来ずにシャトルを見送るしかなく、橋本は最後の点数を告げた。

「ポイント。フィフティーンワン(15対1)。マッチウォンバイ、相沢吉田」
『ありがとうございました!』

 四人とも勢いよく挨拶を交わしてコートから出る。
 金田は一足早くコートから出てラケットバッグの上に置いてあったタオルを取ると、顔を力任せに拭いて汗をぬぐい去る。しばらくして顔をあげてから息を吐くと唸るように言った。

「うおあああー! 八ゲームやって結局五点しかとれなかったか」
「やっぱりブランクは厳しいな」
「ブランクだけじゃねぇ。こいつらがけた外れに強くなったからだよ」

 金田の言葉に吉田と武は恐縮し、向かい合ってかすかに笑う程度だった。
 四月の第一週、卒業した金田と笠井がずっと練習をしに来ていた。
 高校に入学が決まるまでは受験勉強もありランニングをする程度にしていたが、合格してから高校の練習についていく上で勘を取り戻しておきたいと部活に顔を出してきたのだ。ちょうど、全国大会から戻った武と吉田が標的になり、二人の練習相手となった。
 五日間で八ゲーム。
 武と吉田が取られた点数は五点だけ。
 圧倒的な力の差を先輩に見せつけたことになる。

「ほんとすげーよ、お前ら。多分、高校の先輩達よりも強いんじゃないか」
「そこまでは分かりませんが……負けない自信はあります」
「言うようになったなぁ、相沢! その意気だ!」

 武の言葉に金田は背中を叩いて喜び、笠井も笑顔を浮かべている。二人とも後輩にほとんど抵抗できずに負けることよりも、成長したことが嬉しいのだろう。無論、悔しさがないわけではないだろうが、自分達の成長を二人とも諦めていない。

「お前ら。気合い入れて浅葉中の名前を全国まで知らしめてやれよ。で、高校はうちらのところな」
「全国優勝経験あるような奴らが入ってくれると、こっちとしても大助かりだ」

 二人とも同じ私立の高校へと進む。野球やレスリングなどスポーツのほうに力を注いでいて、近年ではバドミントンでも北海道内の絶対的王者、札幌光明に一矢報いるところまで来ている。
 武達の先輩で言えば、一年の時の三年、桜庭克己が入り、今年は金田と笠井の二人。他の先輩達も各々高校に進んでいた。

「俺らは、まだ進路は分かりませんよ。ひとまず、自分達の試合をするだけです」

 武が困っていると吉田が横から口を出した。金田は「早めに決めといたほうがいいぞ」と言ってその場を離れる。水を飲みに行くためにか、体育館の外まで出て行った。
 ほっとして武も壁際に歩いていき、置いてあるラケットバッグから飲み物を取りだした。同時にラケットを見てガットが切れていることに気づく。

「あー。林か橋本。はさみ持ってない?」
「俺があるわ」

 そう言って林がはさみを武に手渡す。
 武は礼を言って受け取るとガットを縦と横に切り裂き、ラケットから取り去った。
 ふと考えて、そのガットが三月終わりの全国大会の前にわざと切って貼り直したことを思い出す。二週間で寿命を遣いきったのだと分かってため息をついた。

「改めて、凄かったんだな」
「お、ガット切れたか。でもヨネックスオープンとかだと一日で何十人も切れるらしいから、会場にガット張る仕事の人がいるみたいだぞ」
「マジ?」

 横にきた吉田が武のラケットを見て言う。思わぬ情報に武は感嘆のため息を漏らした。一回、二回の試合でガットが切れるというのはどういう使い方をしているのだろうか。それほどまでに強烈なスマッシュを何十回も、下手したら百回以上打っているのだろうか。想像だけで腹が膨れる。

「多分、実業団の人は張りのテンションが強いんだよ。だから強烈なショットを打てる反面、切れやすくなるんじゃないかな」
「なるほどなぁ」
「切れづらいガットも開発されてきてるらしいけどな」

 吉田の講義が終えた所で、庄司が両手を打ち鳴らして練習の終わりを告げる。シャトルがラケットの間を飛び交う音が止まり、庄司へと視線が集中した。
 ステージの上に上がった庄司は、一度咳払いをしてから全員に聞こえるような声で言った。

「よし! 今日の練習はこれで終わりだ! 明日と明後日。土日は来週の始業式の準備で先生方は誰もつけないから、部活はない! ゆっくり体を休ませるように。特に相沢と吉田! お前らは全国の疲れを残さないように二日間家から出るな!」

 庄司の言葉に笑いが湧きおこる。吉田は苦笑し、武もどう言い返したらいいか分からなかった。
 ひとしきり笑いがおさまると庄司は続ける。

「さて、この後だが。二時間後、三時から全国大会に出た選手達をねぎらう会を行う。教室は既に借りてある。二年と三年の一部は用意頼むぞ! 金田と笠井はどうする?」
「俺らはいいです」
「こいつらが頑張った結果ですから。俺らは高校で待ってますよ」

 いつの間にか戻ってきていた金田と笠井は、ラケットバッグを背負って既に退散する準備を整えていた。
 武は練習前に午後から高校の練習に参加するということは聞いていた。
 午前中の中学の部活に参加して、午後からは高校に参加する。
 金田と笠井の正気を疑うが、それだけ貪欲に力を求めているのだろう。武と吉田と試合をしたことも、高校の練習では得られない何かを得るために違いなかった。

「よし、じゃあ二時間ほどあるが吉田、相沢、早坂、清水、藤田は少し時間を潰していてくれ。体育館は次の部活だから、学校近辺でな。では、片づけしてから解散!」

 庄司の言葉が終わり、片づけに入る。金田と笠井を送り出してから武と吉田も参加して、あっという間に次の部活へと体育館を引き渡す。
 更衣室で制服に着替えを終えた後で一、二年の男女は準備があるからと分散し、残ったのは庄司に名前を呼ばれた五人と由奈だけ。

「あー、俺。じゃあラケットのガット張り替えてくるわ」
「私も切れちゃった。一緒に行っていい?」
「ああ」

 由奈が武についていくと言って後ろに回る。
 武以外の四人は二人に生温かい視線を向けながら手を振ってきた。
 先に歩を進める武と、後でと伝える早坂に元気に手を振ってから続く由奈。速足で玄関から外に出ると、外は強くなってきた太陽光によって道路の雪はほとんど溶けていた。気をつければ自転車でも進めるくらい。三月はまだ残っていた雪も四月になればなくなり、消えていく。

「すっかり春だな。春の終わりは東京にいたから、似たようなものだったけど」
「やっぱりあっちの冬って違う?」
「寒いのはあまり変わらないかも。でも風はこっちが寒いな」

 雪が溶けていても自転車で来ているわけではない。武は頭の中で行って戻ってくる時間を逆算し、走らなくてもいいと結論が出たため由奈と共に歩き出した。
 歩いていくと告げた時に、由奈は笑うことを堪え切れず噴き出した。意味が分からない武に由奈は「バドミントン終わっても運動したがりなんだね」と告げる。部活の後で疲れているにもかかわらず歩くのを迷うことなく選ぶところが、体力をつけようとする――バドミントン馬鹿だと言っていた。

「そっか。気付かなかった」

 由奈に指摘されて初めて頭の中に「歩く」以外の選択肢がなかったことに気づく。間に合わなさそうなら数回速足を加えればいいと思うくらいだ。考えている間にも歩幅が大きくなっていたのか、速足で由奈が追ってくることに気づくとペースを落として隣に並ばせた。

「由奈もガット切れたんだな」
「うん。実は全国大会前にも切れたから張り替えてもらったばかりなんだよ」
「……全国で酷使してないのになんで切れたんだろうな」
「もしかしたら武のガットを守ってくれてたかもよ?」

 試合の中でガットが切れることほど集中力が乱されることはない。
 慣れ親しんだラケットによるスマッシュスピードやタッチの感触。それは途中でリセットされれば立て直せないほどの衝撃かもしれない。
 全道大会でも、君長がラケットを途中で交換して精度を欠いたこともある。
 思い返せば、ラケットにガットを張りに行った時も由奈と一緒だった。

(確かに。由奈のおかげかもしれないな)

 非現実なことでも思えば力になる、かもしれない。
 武は今日までバドミントンをしてきて、何度か感じていた。
 無論、それは自分が努力したことを土台にして生まれるのだが、積み重ねてきたものの上に、それ以上の何かの力が生まれる。
 思いは届くのだと自分で体現しただけに武は嬉しくなる。

「そういえば、さっき。金田先輩達に強気で言ってたよね」

 さっきとはどの時かと思い返してみて、高校の先輩達に負けない自信があると告げた時だろうとあたりをつける。そのことを告げると由奈は「うん」と大きく頷いて、先を続けた。

「全国から帰ってきた人達はずいぶん印象が変わったんだけど、特に変わったのは武だよ」
「俺はバドミントンの実力以外は何も変わってないと、思うけど」
「凄く自信がついて、かっこよくなったな」

 ほんのり顔を赤くして言う由奈を見ると、火照って顔全体が赤くなり、武は前を向いた。視線が外れたことで自然と右手は由奈の左手を掴んでいる。指と指をからめて、恋人同士の繋ぎ方。

「先週までの武は、強かったんだけど、どこか頼りなかったっていうか。私にとっては十分強いんだけど、強い人の中にいたらどうかなって思うくらいだったんだ。でも、今は違う」

 そうかもしれない、と武は由奈には言わずに内心呟く。
 全国を勝ちぬいた時、武は自分の中に覚悟が生まれるのを自覚した。力がある者の責任。ない者がある者へと挑むのではなく、迎え撃つ。
 これから先に武と吉田を待っているのはそういう世界だ。

「俺はさ。吉田と、早坂が目標だったんだ」

 歩いている中で由奈へ、全国大会が終わった後に感じたことを話す。憧れだった早坂や、自分を導いてくれるパートナーの吉田に追いつきたかった。その目的は全国大会を終えたことで達成し、自分には新たな目標が必要になった。

「三年になってからの最後のインターミドル。俺は優勝を目指して頑張るつもりだ。心の底から、全国で一番上に立つことを目指して。きっと辛いけど、浅葉中の仲間達が応援してくれれば出来ると信じてる」
「うん。私だけじゃなくて、皆、応援してるから」

 由奈の握る手が少しだけ強まる。思いの強さを武へ伝えようとするかの如く。痛いと思う程度に強く、武は苦笑いするしかない。
 街に入り、駅の傍まで来ると右折してスポーツ用品店を目指す。
 幼いころから使ってきた場所はどこに何があるのかも把握していて、顔見知りの店員にラケットを見せ、選んだガットを張ってもらうように頼む。
 スムーズにやり取りは進んで、武と由奈は十分もしない内に用品店の外に立っていた。

「……ひとまず、戻るか」
「うん。張り上がるのは明後日になるって言ってるしね。ここにいても意味ないかな」

 再び歩き出すと今度は特に話すことはなかった。それでも、武は狼狽することなく、むしろ雑音は排除したいと考えていたために今の状況は落ち着くことが出来た。
 駅前のアーケード街を抜けて、市民会館があるような街の中心部を抜け、辿り着くのは緩やかな坂道。途中で農業高校があり、抜けた先には成城西高校へと降りていく坂。そして、もう少し先には浅葉中の校舎がある。残り時間を考えて、武はペースを落とすと握る力を強くした。
 自分が抱いている思いを由奈へと伝えたいと思って。

「由奈。ありがとう」
「何が?」
「由奈が支えてくれているおかげで、俺はくじけずにすんでるのかもしれない」
「私だけじゃないと思うよ。皆が、武の仲間だと。浅葉中の皆も、きっと他の学校の人も」

 一週間前に地元の駅に降り立った時、他校のライバル達と拳を重ねた。
 今度会う時は敵同士。全力を尽くして戦おうと。
 信頼し合う仲間であり、力の限り闘って倒すべき好敵手。
 そこまで考えて体が震えた。興奮が衝動となって込み上げてくる。

「俺は、もっと強くなる。地区大会でも、全地区大会でも、全道でも。全国でも負けないように」
「私はそんな武をずっと、応援して行くよ」

 由奈の力強い言葉に頷いて、武は力強く歩道を踏みしめながら歩いていく。視線の先にはまだ木や建物に邪魔されて見えないが、浅葉中がある。
 小学校六年間で一勝もできなかった。
 そんな自分が勇気を持って踏み出した一歩が、ここまで続いている。
 力を込めてしゃがみこみ、空へと思い切り飛ぶことができたように、この年月は無駄にはならなかった。
 過去の自分に向けて武は語る。

(あの時……あの、吉田と金田先輩のシングルスを見て、バドミントンを止めないでいて、よかった)

 脳裏にはずっと残っていたイメージが蘇る。
 足が、腕が、身体が重かった。
 動き続けること、立っていることさえも困難になる。
 熱さに流れる汗が細めた目の横を過ぎてかすかに瞳に入っても、武はシャトルを追うことを止めなかった。
 試合を捨てるなどとは考えない。
 考えられない。
 体力が底を尽きかけているために、身体を動かす事にしか使えない。
 思考力はゼロに近かった。
 歪む視界の中、水の中のような空気をかきわけて武は必至に前へと進み出た。ラケットをコートに落ちようとしているシャトルへと思い切り伸ばす。
 ラケット面は正確にシャトルをとらえて、相手コートへとロブを打ち返していた。

(もっともっと、強くなる)

 決意を胸に、武は歩き出す。隣にいる由奈の温もりを感じながら。

 新しい季節は、すぐそこまで迫っていた。


 Fly Up! 完
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