Fly Up! 306
その日の朝、武は六時半に目が覚めた。朝日はカーテンによって遮断されていたが、目覚めはすっきりとしている。体にある気だるさも起きぬけのものであり、疲労はほとんど感じない。これから体にも血が巡っていく中で気だるさも取れて、ベストコンディションで試合会場に行ける自信があった。
「しゃ!」
軽く自分に気合を入れてカーテンを開ける。三月も終わるという朝の空の色。思い返してみれば、この春休みの時期に北海道にいないというのは初めてで、不思議な感覚だった。北海道では雪が溶けかけていて、水と雪が混ざりあう道の上を苦い顔をしながら向かう頃だろう。おそらく今は、橋本や由奈はそんな風に部活へと向かっているだろう。
同じ学校の部活仲間と自分達。場所は違えど、真剣に目の前の壁に取り組むということは一緒。
武は再度気合を入れてから服を着替えた。吉田コーチと庄司の好意で、試合が終わった後はもう一泊することになっている。だから今日は部屋に服は置いていき、ラケットバッグにユニフォームを詰め込んで体育館に向かうだけ。時間を気にする必要もなく、ただ前だけを向けばいいのは精神的にも楽だった。
「やってやるよ。全国制覇」
武は窓を閉めて、そこに映る自分に向けて言う。自分の言葉が自分にエネルギーを与えて行く。今日の自分は全身へ十分に気力が満ちていることを確認して、部屋を出た。
チームメンバーと合流して朝食を食べてから顔を洗い、全員でホテルを出る。決まった流れを脳裏に浮かべながら、今日を楽しむべく足を踏み出した。
* * *
全国大会最終日。団体戦の準決勝と決勝が行われるということからか、客席には多くの一般客が見に来ていた。バドミントンの大会で多くの客席が埋まっているという光景を知らなかった武は、周囲を見ながら驚きに口を開く。
「はぁ……凄いな。こんなに客席が埋まってるの初めて見た」
「多分、東京近辺で出られなかった中学の選手とか、集まってるんだろ」
吉田の言葉に改めてじっくりと見ると、確かに自分と同世代が多いように見える。更に年上の者や大人も多く椅子に腰かけていて、何かを話しているのが見えた。
「あれはたぶん、高校生だな。自分の高校に入る選手もいるかもしれないだろ」
「あ、そうか。東東京か」
南と北の北海道。九州はまだしも、東東京のチームのメンバーは中学を卒業すれば近辺の高校に入る可能性が高い。その時に勧誘しやすいように目を付けているのかもしれない。
あるいは、武達を含めて地方の中学の選手が越境入学することも想定に入れているのだろう。
(それにしても。注目されてるよな)
どこの県が一位を取るか。まるで国対のごとき新しい試合。第一回目の優勝チームということだけでも注目を浴びるだろう。
その意味では、誰もが興味を持っているのだ。
どこの県が強いのかを。
「確かに注目度は確かだ」
ストレッチを続けながら雑談していた武達の傍に吉田コーチが現れる。庄司も無論一緒だが、いつも一歩引いて吉田コーチの様子を見ている。武達は立ちあがって吉田コーチの前に進むと、笑みを浮かべながら告げていた。
「ここでお前達が勝てば、全国の中学生から注目を浴びることになる。そして、お前達は追われる側になる。インターミドルで、目標として」
今、この会場に来ているのは東京やその近郊に住む中学生が大半だろう。ほとんどが、武達と会う機会はほとんどない者達。武達が全国に出なければ試合をする可能性さえない者達だ。そう考えると、前日に考えたことがまた思い浮かんでくる。自分達は、試合の制度の上で実力を発揮して勝ち進んだのだ。もしもインターミドルならば、ここまで来ることはできなかったかもしれない。
「あれ?」
武は自分の左掌が震えているのに気づいた。いつから震えていたのか全く覚えていない。顔を上げると、吉田も小島も。安西や岩代も武を見ていた。
「緊張、してるな」
「……そうかも」
吉田に対して強がらずに答える。吉田というよりも、男子全員に。更に男子の輪から外れたところからは女子も武を見ている。既に恥ずかしさや、気を強く持とうということは思えなかった。
準決勝だけではなく、勝ち抜けることができれば決勝というのは周りからのプレッシャーも計り知れない。そんな中で試合をするのだから緊張しないわけがないのだ。そして、チームメイトにくらい弱さをさらけ出さないでどうするのだと、完全に割り切る。
「今のうちに緊張しとけ。試合に入ったらそんな余裕なくなるから」
「そだな……試合の時ってそういえば、緊張しないな」
「昔はよくしてただろ」
「そうかも」
試合の間に緊張をしなくなったのはいつからだったか。確かに昔の自分は固くなり、パフォーマンスを発揮できなかったというのに。それがまるで遠い過去のよう。既に自分は遠くまで来た。もう少しで絶対に届かないと思っていた場所へ来ている。
「そろそろ集まれ」
吉田コーチの声に応えてから、吉田が傍に来て武に手を伸ばす。その手を取ると、体中に力がみなぎってくるようだった。震えも止まり、心臓も落ち着いていく。深呼吸を数度繰り返すと既にもういつも通りの状態だった。それまで聞こえていたいつもより多いざわめきも聞こえなくなる。
吉田は手を離すと歩き出し、武もその後を追った。
十人が集まると、吉田コーチは一度咳払いをしてから言った。
「あと十分後に、準決勝が開始される。昨日のオーダーを告げてから各自で録画を見て、自分達なりの戦略を組み立てたと思う。バドミントンは、考えるスポーツだ。考えて、考えて、相手の隙を見つけ出し、作り出すことでそこを突く。諸君にはもう、その力は十分付いていると思っている」
一度言葉を切って全員を見渡してから、吉田コーチは続けた。
「今日は私も指示は最小限にするつもりだ。今日は自分達の力で、最後まで楽しんでほしい」
『はい!』
優勝まであともう少し。その段階で楽しむように告げる吉田コーチ。武は胸に『楽しむ』という言葉を刻みこむ。
目の前の壁を登ることを楽しむ。辛く大変なチャレンジになろうとも、その苦しさを楽しむ。
おそらくそれは、これから先も武達と共にあるものだから。バドミントンを続けていく限り、勝利の達成感は体への負荷と共にある。辛さをこらえた先にある一握りの勝利のために、これから先も体を酷使し続けるのだろう。だからこそ、楽しんでいきたい。辛い思い出にはせずに、チャレンジすることを。負荷を楽しむ。
「よっし。行こうぜ、みんな!」
「それは吉田のセリフじゃない?」
早坂の言葉に武が「そうか!」と笑ってすませると全員が笑った。準決勝を控えて緊張していた体から固さが取れた。気が抜けているわけでもなく、適度に緊張感を保ちつつも悪循環になるような緊張が消えた証拠。十人の顔には全く影はなかった。
『これより、試合を始めます』
アナウンスがかかった瞬間、吉田が「行こう!」と叫んで小走りで駆けだした。武はすぐに後を追う。その後ろを小島達が追ってくるのは気配で分かった。
アナウンスはどこのチームがどのコートで試合を行うかということを告げている。
試合は前日と同じように、一つの試合で二つのコートを用いて行われる。最初に男女シングルスを行い、終わってから男子ダブルス。そこからは様子を見て女子ダブルス。そしてミックスダブルスが順番に開始される。
今回の先陣を切る、岩代と早坂が武のすぐ傍まで走ってきた。
「岩代。早坂。頑張って!」
「やるだけやるさ」
「必ず勝つわ」
武の言葉にそれぞれ答える二人。岩代は、自分の役目が小島の温存だと分かっている。そして完全復活した早坂は最大のライバルである有宮小夜子を倒すことを考えていた。だからこその受け答え。早坂はまだしも、岩代の言葉の裏に静かな闘志が燃えているように武は思えた。
(岩代のやつ……勝つ気満々じゃないのか)
大阪戦の時もシングルスで、悪い意味で言えば捨て駒だった。武の目から見て、その時の試合は十分良かったと思える。もっと後半のパフォーマンスが前半から出れば、よりいい勝負ができたのではないかと考えたものだ。
岩代もまだ伸び代があり、この試合中に覚醒するチャンスがある。このチームで今一番伸びているのは姫川と自分だとしても、他の選手もまたその余地がある。
(そうだ。北北海道と当たる前の最後のレベルアップのチャンスなんだから)
まだ決勝に勝ち上がってくるとは決まっていないが、武にはもう北北海道が準決勝で負けるビジョンはなかった。必ず決勝で試合をする。そのことを目指してラケットを振る。モチベーションはそこにしかない。
(どんなオーダーになっても、試合を絶対にする。絶対に、だ)
ちょうど気合いが最高潮になったところで、タイミングよく試合をするコートへとたどり着いた。武の出番はしばらく後だが、応援に最初から気合を入れたかった。最初から注目のゲームがあるということで、観客席の視線も武達のコートに自然と集まる。着いてからすぐに早坂と岩代はジャージを脱いで、ユニフォーム姿を見せていた。基礎打ちを始めて、体を少しでも暖めるために素早くコートに入る。
そこで武は、早坂の手首に見慣れないリストバンドが付けられているのを見た。
「あれは……もしかして、瀬名の?」
基礎打ちの相手をしているのは姫川だ。瀬名は武から椅子二つ分だけ離れた席でその様子を見ている。質問をするには少し遠い距離。移動するのも中途半端であり、結局、武は問いかけるのを止めた。聞かなくてもきっとそうだろうと考える。瀬名の分も頑張るという決意を表すのに、瀬名のリストバンドをつけるというのは非常に早坂らしい。小学生の時は実力差もあり当人の性格もきつかったせいで、距離を置いていた。だが、中学になって近づくと、友達を非常に大事にするのだと分かった。特に仲間というものを大事にして、背負っていくという意思が強く光っていた。
武は改めて早坂を尊敬する。全国大会で最初は不調だったが、この準決勝で完璧に復活を果たしている。今の早坂は間違いなく全道大会の時以上だと言える。
「はっ!」
ある程度温まったからか、早坂はスマッシュを打ち込む。しなやかな筋肉を使っての腕の振り。しなりを利用した威力の増加だけではなく、明らかにスイングスピードも上がっていた。しならせることに慣れたことで更に力を上乗せしようと自分でも工夫を加えているのだろう。有宮はスマッシュが速い選手だとバドミントンマガジンで読んだ覚えがあるだけに、もしかしたら瀬名と同程度のスマッシュを打ち合う展開になるかもしれない。
一方で隣のコートでは岩代が安西と淡々と基礎打ちを続けていた。岩代がドロップを打ち、前に出た安西がヘアピンを打つ。前に落ちるシャトルを、岩代がロブを上げて後ろに飛ばす。それを交互に繰り返すドロップアンドネット。強打は使わずにひたすら体を動かして汗を出そうとしている。同じシングルスだが、対象的な練習をしていた二人だったが、そこに東東京の選手達がやってきた。
監督を先頭にコートの横に並ぶ。男子五人の次に女子五人という順番で並び終わると、先頭に立っていた男子が大きな声で言った。
「よろしくお願いします!」
『よろしくお願いします!』
コートに入る前に挨拶をする決めごとをしているのか。規律の整った動作の後に武達と同じように選手が基礎打ちのためにコートへと入っていく。きびきびとした動作で岩代と早坂の隣にそれぞれの対戦相手が並び、打ち始めた。岩代の隣には男子シングルスの水島比呂。そして、早坂の隣には有宮小夜子。
特に言葉が交わされることもなく五分ほど時間が経ったところで大会役員が六人やってきた。
それぞれのコートの審判の位置に一人。そして、ラインズマンに二人配置についたところで、審判二人岩代達と早坂達に声をかけた。
「練習を止めてください」
あまりにも揃っていたために武は笑いそうになる。東東京といい、きっちりとしていると感じるが、審判はともかく、東東京はプレイスタイルを日ごろから表しているかのようだ。
(ハイレベルな、基本か)
癖のない、基本の型を高めたという東東京代表。特に優れた部分がないことから地味に見えるが、それだけ攻めるのが難しい。もしも勝てたならば、本当の強さを持っていることになる。
誤魔化しが効かない、真の強敵。
コートから出てくる姫川と安西に労いの声をかけると二人は同時に首を振った。その意味が分からずに、ひとまず近かった姫川に問いかけると、緊張から解き放たれたかのような息を吐いて呟くように言った。
「これから疲れるのは、二人だよ。あの有宮って人。やばい。何か分からないけど」
「同じ意見だな。岩代には本当に正念場だ」
二人は武を挟んで座る。間に挟まれた形になる武は、とりあえず岩代のほうから試合を見ることにした。前日の大阪の試合でもシングルスで、今回もシングルス。睡眠を挟んでいることで体力は回復しているだろうが、連続して強いシングルスを相手にする気持ちはどうなのか。
じゃんけんでシャトルを取り、サーブ位置につく岩代に武は吼えた。
「岩代! 一本!」
急に発せられた武の声に会場中が静まり返った。自分の声が引きおこした事態に気づいた武は慌てて体を小さくした。しかし、岩代はその声に呼応するように咆哮する。より大きく、武の声をかき消すように。
「一本!!」
瞬間。岩代を中心に爆風が沸き起こったかのように武には思えた。見えない風圧が武の顔を叩き、目を細めさせる。岩代は暴風が収まらない中でロングサーブを打ち上げた。ラケットに打ちだされたシャトルは高く遠くへと飛び、後のシングルスライン上へと落ちていく。シングルスプレイヤーではないにもかかわらず、岩代のコントロールの良さは彼らに匹敵する。対して水島はまるで風の中を泳ぐように穏やかな動きでシャトルを追った。そんな動きでは追いつけないのではと思うほど遅く映ったが、いつの間にかシャトルの落下点にいたことで武は思わず目を手で擦っていた。
(なんだ!? いつの間にあんなところに?)
水島がラケットを構える動きもスローモーションに見える。だが、いつの間にかシャトルは打たれていて、シャトルは岩代のコートのサイドシングルスライン上に落ちていた。
「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
武は思わず椅子から立ち上がってしまった。体の奥から込み上げる熱さを抑えるためには座ったままでは無理だと。
(水島の動きが遅く見えたのは、無駄な動きがなかったからってことか?)
まだ答えは分からないが、ハイレベルな基礎、という単語から予測を立てる。無駄な動きがほとんどないために、逆にスローに見えてしまったのかもしれない。
(これが、東東京……)
武は熱さを伴った息を吐く。震える体は収まったが、早く試合をしたいという思いはより強くなっていく。
こうして、全国大会最終日。準決勝は幕を開けた。
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