Fly Up! 175

モドル | ススム | モクジ
 武達がダブルスの試合をし始めた頃、庄司はもう一人、傍に呼んだ。

「小林!」

 体育館の隅で丁寧に準備運動をしていた大地は庄司に呼ばれたことに気づいて慌てて駆け寄ってくる。試合をしているコートの後ろを慎重に通り抜けて。
 庄司の傍までやってきた大地に向けて、庄司は一つ息を吐いてから言った。

「小林。次の学年別大会。お前の中学最後の試合になるかもしれない」
「……え?」

 庄司の言葉の意味を理解できず、大地は首をかしげる。中学二年の最後というならば話は分かる。この後に控えているのは地区の団体戦。実力が上位のプレイヤーが学校という垣根を越えてチームを組み、戦っていくのだから自分の出番はそこにはないと大地は分かっている。
 だが、中学最後ということはもう大地に試合に出る機会はないと言っているようだ。

「もう、僕は試合に出れないんですか?」
「ああ。今回、一年は竹内と田野以外はシングルスで出る。一年生は四人。二年生はお前と杉田。全員で六人だ。今回は学年別だが問題ないが、中体連は、人数制限がある」
「人数、制限……?」
「そうだ。一つの学校から五人以上出してはいけないんだ。来年度からのようだが、試合を消化するペースを速めるために人数制限を決めた。そしてうちは俺が顧問の間は実力が上の順で試合に出すつもりだ」

 そこまで聞いてようやく大地は理解する。つまり、一年生四人の誰かよりも実力が上とならなければ、引退ということ。
 現時点では、大地は一年の誰にも勝ててはいない。

「辛いようだがこれが現実だ。だが、これからの努力次第で十分変わる可能性はある。俺はお前を見てきたからな。相沢や吉田に負けない努力をお前してきたと思っている」
「……はい。分かりました」
「よし。じゃあ、大地は一年生達と一緒にシングルスの実践練習だ。お前が中心になってリーグ戦形式でいい。一通り試合をするんだ」
「はい!」

 大地は庄司が差し出した紙とボールペンを持って、一年生達の待つ場所へと向かった。元気よく返事をしたが、一年の傍に近づいていく中で心の底に黒い何かが溜まっていくような気がしていた。

(気のせい気のせい。僕は僕で、ペースを崩さずにやるだけだ)

 いつもそう自分に言って、練習してきた。その言葉が、何か重かった。


 * * * * *


「今日も疲れたなー」

 杉田はタオルで体の汗を拭き取りながら大地へと話し掛ける。試合形式の部活はあっという間に終わり、更衣室には流した汗の匂いが満ちる。
 既に着替えを終えた武と吉田は外に出ており、今、中にいるのは二人だけ。大地は備え付けの椅子に座って俯いていた。

「何か、あったか?」

 杉田の言葉に大地は顔を上げる。体力的な疲れに加えて精神的なものがあるのか、少し青ざめていた。

「どうした?」
「……試合に出るのは、次で最後だってさ」

 大地は庄司に言われたことを一通り話す。杉田の顔は徐々に曇り、握りしめた手が震える。

「大地だって二年間頑張ってきたんだぞ……それなのに、今のタイミングで言うなんて」
「だから、言ってくれたんだと思う。試合の直前で出れないと分かるよりは、死ぬ気で頑張れるよ」

 大地は杉田を宥めると汗ばんだシャツを脱いでタオルで拭く。人に話してもどうもならないことはある。だが、自分のことのように心配してくれる人がいるならば、まだ頑張れる。

「ごめんね。杉田だって今が大事な時期だってのも分かってるし。今でも皆、バドミントンを嫌いにならずに部活できればいいって思ってるのも分かる。今みたいに優劣つけてたら、そういうのが崩れるんじゃないかって思ってるんでしょ」
「……前ほどじゃないけどな」

 杉田は着替え終えて、壁に背中を預ける。虚空を見ながら自分が言いたいことを整理する。少し時間を置いてから、口を開いた。

「前は初心者にはもっと優しくいろいろと気を回してやればって思ってた。でも、自分が強くなって。でかい大会にも出れて。その中で、本当に必死にやってるんだなと思って。それって、多分優しくするだけじゃ絶対目指せないところがあると思うんだ」
「庄司先生が僕に言ったように?」

 大地の言葉に杉田は頷く。杉田が自分の考えを肯定しきれないことを大地は見抜いていた。上にいかなければ見えないものに杉田が気づいた。それは、初めの頃には分からなかったこと。杉田が成長したという証だ。だけど杉田はその成長に気づかずに、自分の考えが強くなったから変わってしまったと勘違いしている。だからこそ、大地は背中を押した。それでいいと。

「杉田はきっと、いつまでも杉田だよ。杉田が強くなると、なんか俺まで嬉しくなる」
「そ、そうか?」

 照れくさそうに頬を掻く杉田に笑いながら頷く大地。そして制服に着替えを終えて、更衣室を出るように促した。

「さ、明日からまた頑張ろう」
「ああ」

 出てから杉田が前に出て、そのまま歩き出す。その後ろにつきながら、大地は自分の心にある黒い感情が少しだけ大きくなるのを感じた。自分が一体何を考えているのか。自分の気持ちが自分で分からない。制御できない。

(こんなこと、初めてだな……)

 一体、何が自分をここまで疲れさせるのか。自分の内に広がるこの思いは何なのか。どうして大地は理解できない。
 杉田と他愛もない会話をしながらやがて分岐点に来て、そのまま杉田と別れた。遠ざかっていく背中を見ながら、また黒い何かが広がっていく。

「分からない」

 頭を抑えながらぼんやりと歩く。雪で埋まった歩道。その中で先に歩いた人達が作った、雪が掻き分けられた道。そこを軽く足を沈ませながら歩く。時刻は夜の七時半を過ぎて、人通りも少なくなってきていた。音は雪に吸収されているのか、遠くを走る車の音がかすかに届くのみで、あとは自分が雪を踏みしめる音のみ。自分ひとりしかいない空間で、自然と自問自答になっていく。

(庄司先生に言われた時と、杉田と話した時。なんとなく気持ち悪い感情が出てきた。二人に対して恨みがあるとかそういうことじゃ、ないんだ。なら何なんだろう? どうしてこんなに、苦しいんだ?)

 俯き加減に歩いていると、前方から自分と同じように雪を踏みしめる音が聞こえてくる。テンポが速く、どうやら走っているらしいと、大地は半歩横にずれた。今は誰の顔も見たくない。速く行ってほしい。
 そう思いながらの行動だったが、逆に前から来る足音はその速度を落とした。

「あれ、大地」

 そうして聞こえてきた声は、聞きなじみのあるもの。
 今日も、着替える前まではよく聞いていた声だ。

「吉田?」

 声と同時に顔を上げる大地。目の前には、ジャージを着込んだ吉田の姿があった。

「え、どうしたの?」
「ああ。部活後のランニング。軽くだけど走ってるんだよ」
「この寒い中を?」
「だから厚着してる。冬場でも走らないと体力付かないし」

 この寒さの中で、白く立ち昇らせている吉田を見て大地は口を開いた。

「吉田。相談が、あるんだ」
「どうした?」

 吉田は首に巻きつけたタオルで顔を拭き、話を聞く姿勢を作る。とりあえず進行方向に歩くことにして、進む。道幅が狭いために大地が先頭で、吉田がすぐ後ろ。大地は後ろを向きながら話す。

「じつは、大会に出るのは今回が最後かもしれないって庄司先生に言われた」
「そうだったみたいだな」
「知ってるの?」
「そりゃ、部長だからな。先生からもそういう話は聞くさ」

 吉田はさらりと答えるが、大地の胸の内には更に何かが溜まっていく。もしかしたらこの思いに名前が付けられるかもしれない。大地はそう思って吉田に打ち明ける。

「吉田。相談があるんだ」
「さっき聞いたよ。で、なんだ?」

 大地は一つ一つ説明する。
 自分がその思いに名前を付けられないこと。
 それは庄司に宣告された時から溜まっていくこと。部活の間は特に浮かんでこなかったが、杉田や吉田と話す時は少し浮かんできているということを。

「なんか、とても苦しくて、気持ち悪くなるんだ。これって何なのかな?」

 吉田は大地の問いかけにすぐには答えず、歩く。大地が気になって視線を向けると、困ったような表情で吉田が見ていた。どう反応したらいいか分からずに後ろを向いたままという奇妙な体勢のまま進む。

「それは……当たり前の感情だよ、大地」

 吉田が口を開く。そして告げる言葉は、一つ一つしっかりと口にする。

「それは、嫉妬だ」
「……嫉妬?」
「そう。恨みじゃない。嫉妬。それと、悔しさ。下級生に勝てない悔しさ。順調に実力を身につけていく杉田への、嫉妬」
「僕が、嫉妬……?」

 大地は自分を自分じゃないかのように見る。そういう感情があることも分かっているし、小学校時代もなかったはずがない。しかし、今、初めて覚えたもののように感じている。

「子供っぽい感情じゃなくて。本当の嫉妬。自分が真剣に取り組んで。それでも届かない物に、他のやつが届いてる。そのことが許せなくて、自分は情けないし、他人は妬んでる。それだと思う」

 吉田の言葉を一つ一つ自分の中で租借する。名前が付かなかった想いに名づけられたことで、堆積していたモヤモヤとしたものが晴れていく。はっきりと見えた「嫉妬」に、大地は胸を強く抑えて耐えた。

「やっぱり、僕は、悔しかった」

 大地は何度か息を吸い、吐くという動作を繰り返す。落ち着きを取り戻してから、吉田へと向き合って尋ねる。

「吉田も、こんな気持ちになったことあるの?」
「ああ。いつもさ」
「……部で一番強いのに?」

 大地の問いかけに一度空を見上げてから、吉田は言った。

「皆には内緒な。俺は、相沢に嫉妬してる」

 武の名前が出てきたことに大地は驚く。一年前くらいからダブルスを組んでいる相手。だが、大地が驚いたのは武が吉田をどう思っているか知っているからだ。

「でも相沢は吉田のこと、凄いし負けたくないということばっかり言ってるよ」

 部活の合間。バドミントンの会話では必ず武は吉田を誉める。そして追いつくべき目標として、語っていた。その様子を、一番見ていたのだ。だからこそ、その目標である吉田が武に嫉妬しているというのはよく分からない。

「あいつはさ。俺を目標って言ってくれてる。それで、一直線に向かってる。だから、多分見えてないんだよ」

 吉田は軽く笑い、続きを紡ぐ。

「あいつはもう、俺とほとんど並んでるよ。もう俺は目標って言われるほど遠くにはいない」

 大地はまるで自分のことを誉められたかのように、嬉しくなった。あれだけ吉田への憧れを口にしていた武が、実はもう十分に認められ、吉田の嫉妬まで受けている。
 嫉妬。
 つまり、吉田にも武に見習いたいものがあるのだ。

「今回、俺とあいつは別々に出る。互いに足りないところを補って、この試合を全力で終えた時、きっと俺は今後の俺達に必要なものを得てるし、あいつも同じさ。そう信じてる」
「信用してるんだ」
「信頼だよ」

 素直に羨ましいと思えることに、大地は自分の中の黒いものが消えていることを理解した。
 自分の力のなさは嫌だ。嫉妬は存在する。
 でも、吉田や武、杉田は凄いと思うし、だからこそ目指したい。
 ただがむしゃらに強くなりたいと思っていた。あまりにも差が激しくて。
 最初から全然打てなかった大地にとっては、まずは打てること。フットワークが出来ることが最優先だったのだから。

「僕も、目指してみる」

 誰を目指すか、何をどうしようかという具体的なものはない。しかし、暗闇にほんの少しだけ、光が見えた。

「お互い頑張ろう」

 吉田の言葉に大地は強く頷いていた。
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