Fly Up! 146

モドル | ススム | モクジ
(今日は、疲れたな)

 武は風呂上りの火照った肌を冷やそうと共用スペースにあるソファに腰をかけた。かけたというよりも寄りかかったというほうが正確か。
 冷えたソファの表面に触れて体を震わせる。暖房は深夜ということで最低限しか効いていない。油断すれば風邪に繋がることになる。それでも最初の冷えが通り過ぎてしまえば、残るのは心地よさだ。それほど長くいるつもりはない。ただ、言い得て妙だが、寝る前に体を休ませたかった。明日に向けて臨戦態勢を解いておきたかったのだ。

(いよいよ、明日、俺が試合か)

 刈田の勝利。同じスマッシャーとして高レベルの試合だったと武は思う。シングルスのベスト8が出揃い、武達のところからは小島と刈田。そして早坂が残った。どの試合も武を熱くさせるには十分で、試合をしないで応援だけという状況がとても辛いことだと初めて感じた。内から浮かび上がってくる熱を冷まさなければとてもじゃないが寝られなかった。

「あれ、相沢」
「お、早坂。お疲れさん」

 風呂上りなのか、乾ききっていない髪の毛を軽く弄びながら、早坂が武に近づいてきた。そのまま向かいに座り、新聞を手に取る。武がいるにも拘らず無視して記事を読み始めた。

「いやおい。何も会話なし?」
「別に話すことなんてないでしょ? 私は記事チェックして寝るだけ。明日は応援頑張らないと。誰かさんに借り残したくないし」

 そういう早坂の声には穏やかな感情が含まれている。それを目を向けて伝えないところがまた早坂らしいのだろうが、その態度の軟化に逆に武は戸惑う。

(悪いものでも食べたかとか言ったら元に戻るかな)

 あえて地雷を踏んでみたいと武は思ったが、折角良好な関係になりかけているのに戻す必要もないだろう。

「ありがとう。明日は絶対負けられないな」
「ええ。頑張れば今度の団体戦もいいところいけるかも」

 早坂の口から団体戦という言葉が出たことで武も思い出す。
 次の年に入れば、今度は全国規模の団体戦が開かれる。しかも、各中学校ではなく、各地区の精鋭が集った団体戦。考えてみれば今、全道に来ているメンバーがそのままメンバーになる可能性が高い。

「相沢は私の事を買ってくれてるけど、私だけじゃない。今ここにいるメンバーが力を合わせたらきっと良いところまでいける。それは、信じられる」

 早坂の力強い言葉と表情に、武は一瞬思考を止めた。まるで自分の心が早坂へと吸い寄せられていき、体から離れたかのような錯覚に陥る。それほどまでに今の早坂は人間的な魅力に溢れている。ふと、武は思う。

(もっとこいつのこういう姿を皆が見れば、友達増えるだろうに)

 けして今でも友達が少ないわけではないだろうが、余計な外見のバリアが人を遠ざけてる部分もあるだろう。実際、浅葉中の男子でも早坂に近づかない者は多い。主に一年男子だが。

(なんか、変な気分だな)

 心臓が徐々に鼓動を上げていく。こんな気分は最近どこかで経験した。それを思い出そうとするとポケットの中の携帯が震えた。はっと我に返った武は携帯を取り出すと液晶画面には由奈の名前があった。心のどこかにちくりと針が刺さったように武は思った。

「もしもし」

 共用スペースで、夜も遅くなってきている。声を潜めて応答すると由奈がいぶかしげな声で語ってくる。

『どしたの? 小さな声で』
「今、部屋じゃなくて共用スペースにいるんだよ。だから声潜めてるの」
『そっか。今日はお疲れ様。ねぇ、早さん達はどうだった?』
「えーと」

 それから武は今日のシングルスの結果を伝える。
 男子は小島と刈田の二人。女子は早坂の一人がベスト8に進むことを伝えた。男子の二人に関しては特に感慨は浮かんでいなかったようだが、早坂の報には喜びを隠さずに言っていた。

『うわー! 凄い! 早さんにおめでとうって伝えておいて?』
「ん? 今、傍にいるし代わるよ」

 そう言って武は早坂に向けて自分の携帯を向けた。

「早坂。由奈がお前におめでとうって言いたいって」
「……相沢って本当鈍感よね」
「は?」

 早坂の言葉にわけが分からず呆気に取られている武から携帯をもぎ取ると、早坂は由奈に向けて話し始める。

「もしもし……うん。ちょうど会ってね……まさか。由奈は心配しなくて良いよ……うん。ありがとう。明後日にまた試合。明日は応援だけ……はいはい。ちゃんと相沢も応援しておくから。由奈の分まで」

 会話を終えると早坂は武に携帯を返し、そのまま手を振って場を立ち去っていった。

「なんだったんだ?」

 そう呟く武だったが、まだ由奈と電話が繋がっていることを思い出して耳に当てる。

「もしもし。早坂と何話したん?」
『ん……なんでもないよ』

 心なしか由奈の言葉も歯切れが悪い。自分が何かしたかと考えるが、武には原因が思いつかなかった。そのままいくつか言葉を交わして電話は途切れた。最後まで由奈の言葉に元気が戻ることは無かった。

(なんだろうな。まあ、明日になればまた変わるか)

 武は立ち上がり、エレベーターに向かう。後は自分の部屋で寝るだけ。今日見せられた試合に対する返礼を見せるには十分な気力と体力。むしろ早く明日が訪れないかと体が疼き、眠れないのではないかと心配する。
 それでも、部屋に戻りベッドに横になればすぐ睡魔がやってきた。頭は正直だったのか。仲間の試合を応援していく中で経験した緊張が一気に噴出してきて、武の意識は一瞬で無に帰っていく。

(ゆな……応援していて、くれよな)

 今は遠い地元にいる由奈の顔が暗闇に消えて、武の意識は一緒になくなった。


 ◆ ◇ ◆


 早坂はベッドに横になりながら天井を見ていた。寝ようと思っても寝られない。体は疲れているが頭はやけに冴えていた。直前に武に会ったことや由奈と会話したことが頭の中をかき乱している。
 自分で自分を制御できない。原因は分かっていたが認めたくはない。
 それでも認めなければ先に進めないということは分かった。

『早さん、もしかして武のこと、好き?』

 電話の先にいた由奈から届いた言葉。すぐさま否定をしておいたが、心臓が高鳴ってどうしてもおさまらずに電話を武に渡してからすぐその場を去った。部屋に着いてからすぐ横になっても考えるのは由奈のこと。そして、武のこと。

(認めちゃえば、楽になるのかな。でもそれはそれで、別のことが辛くなりそうだけど)

 想いには気づいた。後はそれに名前を与えてあげるだけ。そうすれば一気に解決することは分かる。でも、心のどこかで認めたくない。
 名前を付けることで何もかもが変わってしまう。不確定な未来が広がっているのは見えているが、少なくとも武や由奈と今のような関係ではいられない。
 だが、考え出せばもう止まらなかった。上から下に流れる滝のように、感情の波は流れて一つの答えを導き出す。

(私は、相沢が好きなんだ)

 その感情の名前は、「恋」と呼ばれるモノだった。
 気持ちを言葉にしてしまえば、一気に心へと染み渡る。気持ちは落ち着いていったが、逆に心臓は鼓動を早めた。武の姿が頭の中から離れない。

(まいったなぁ)

 今更告白する気は起きなかった。由奈に悪いと思う気持ちもあったが、何よりも自分が由奈と武が並ぶ姿を見たかったからだ。それは武の前で素直になりたいという思いよりも明らかに強い。

(明日は試合ないし……無理に寝ようとしたら逆に疲れるか)

 早坂はベッドから起き上がり、寝巻きから外着に着替える。すぐ外の自動販売機でペットボトルでも買って飲めば気持ちも落ち着くと考えていた。一息ついて自分の気持ちを整理すれば、何かが見えてくるはずだと。
 着替えを終えて廊下へと続く扉を開けた時、小さな悲鳴を聞いた。

「え?」
「っとと。悪い」

 目の前にいたのは武――ではなく小島だった。ジャージの上下を着て頭に多少汗をかいている。おそらく外を走ってきたのだろうと早坂は考えた。そして次に浮かんだのは疑問。どうして自分の部屋の前にいるのか。

「どうしたの? 階間違えた?」
「いや、早坂に用があった」

 小島はそう言って、しかし廊下の壁に体を預ける。汗まみれの体で女子の部屋に入ることはしないのだと笑って語る小島に早坂は少し好感を持つ。初めて出会った一年次学年別大会の時にいきなり話しかけられた時も、あまり嫌な思いはしなかった。最初から似たような匂いを嗅ぎ取っていたからかもしれない。
 誰よりも強く、孤高になったからこそかもし出される共通的な匂い。

「話って?」
「手短に言うけど」

 小島は腕を組んで一度天井を向いた後、早坂の顔を真正面から見つめる。その真剣な眼差しに早坂は緊張に体が硬直する。

「俺、早坂のことが好きだ。付き合ってくれ」

 心臓が一際跳ね上がる。唐突な告白だったが、心のどこかでは分かっていたように錯覚する。自分の思いを自覚した時ほど、それとはそぐわないものが訪れる。そして、完全に否定する材料がないから悩むことになる。

「えっと……今すぐ返事は、無理」
「そうだろうな」

 小島はショックを受けた様子はない。何しろ断られたわけではなく、まだ告白成功の余地はあるのだから。だからこそなのか。

「なら、俺がこの大会優勝したら付き合うっていうのは?」
「は?」

 早坂は自分の目が点になっているのだろうと思った。
 どうしてそんな話になるのか発想の飛躍についていけない。あまり知らないと断ったばかりなのに、優勝したら付き合ってくれというのはどうなのだろうか。困惑が終わらない早坂に小島は畳み掛ける。

「俺、マジなんだ。なんか不真面目に見られるかもしれないけどさ。一年の学年別で初めて見た時から好きなんだ。一目ぼれなんだよ」

 小島は熱弁をふるうもけして早坂に近づかなかった。夜に女の子を尋ねることが非常識だと考えているのか。それともランニング後の自分の体臭を気遣っているのか。早坂には分からないが、小島がけして軽い気持ちで自分のことを好きだと言っているわけではないことは分かった。

「それと、優勝したら付き合うっていうのはどう関係があるの?」
「俺もこの大会、負けるつもりはないけど、一人どうしてもきつい相手がいる」

 誰かと訪ねなくても分かった。杉田を完膚なきまでに叩きのめした男。試合の光景を思い出すと体が自然と震える。あまりの強さにそのレベルが分からなかったほどだ。

「もちろん他のやつにも勝てると自信を持って言えないさ。でも優勝するつもりはある。そのために、やっぱり目的が欲しいというか」
「優勝することが目的じゃないの?」
「好きな女の子が応援してくれるほうがよほど力が出る」

 そう言うと小島は早坂から顔を背けた。心なしか頬が赤い。照れているのだと分かり早坂は笑うのを堪える。ここで笑えば小島は更にへそを曲げるに違いない。
 この会話だけでも、徐々にだが小島のことを知ることが出来ている。お調子者かと思ったが見掛けよりもよほど繊細な心を持っているのだろう。女子の応援で頑張れるなど武などと変わらない。

(相沢、か)

 すぐに思い出すのが武のことなのはもう仕方がない。首を振って思考から武の映像を追い出すと、早坂は言う。

「分かった。考えておく」
「本当か!」
「あくまで考える、よ。私が好きになるかどうかは分からない」
「それでいいよ! ありがとう! お休み!」

 小島は心からの感謝というような声で早坂に寝る前の挨拶を言って去っていった。その後姿がとても嬉しそうで、早坂は自然と口元が綻んでいた。

(私もあれくらいストレートに言えればよかったのにね)

 少しだけ過去を後悔し、早坂は部屋に戻った。先ほどまでと違ってどこか心が穏やかだった。
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