モクジ

● はじめの一歩  ●

 初めて手に取ったラケットの重さは、意外と軽い、と相沢武は思った。この場に着いた時に年上の人達が耳に痛い音を立てて羽を打っているのを見ていたためだ。だが、実際に右掌に収まったラケットグリップを軽く回してみる。くるくるとラケット全体が回って楽しくなったが、すぐに手から離れて床に大きな音を立てて落ちた。
「こら! 大事に使いなさい!」
「ごめんなさいー」
 強くはないが大声で怒られて、武は萎縮する。自分の他にも思い思いにラケットを持って振ったり、膝にガット部分をぶつけたりと好き勝手に動いている同年代がいた。誰もが自分と同じように小学校一年になって町内会のスポーツ活動に強制参加させられたのだろう。
(サッカーとバトミントンなら……やっぱり、はしらないバトミントンだよね)
 親に選択させられた時、武は迷った末にバドミントンを取った。小学校に入って三ヶ月。休み時間に外でサッカーをするようになったが、上手くボールを蹴れないからとゴールキーパーになり、よく顔を狙われるたためにスポーツを自分でするのは正直嫌だった。痛い思いをバドミントンならしないだろうし、ただ羽を打ってるだけなら疲れないと思ったのだ。
(バトミントンならいたくないよね)
「はーい、集合ー」
 武達に声をかけたのは先ほど武を怒った女性だった。家の裏に住んでいる寺坂という家のおばさんだというくらいの認識はある。だが、実際には話したことはほとんど無い。いつも親や祖母が話しているのを横につれられて聞いていたくらいだ。
「はい。じゃあ、これからバドミントンを始めます。よく、バトミントンって言い間違えるんだけれど、バドミントンですからね。覚えておいてね。じゃあ、一人ずつ自己紹介してもらいましょうか」
 少し早口で紡がれる言葉に武達は一斉に返事をする。隣の子よりも大きく。何故かそんなことに張り合いたくなる。
「ちゅうおうしょうがっこう。いちねんいちくみ、はしもとなおきです!」
「いちねんさんくみ。はやさかゆきこです」
 初めて眼にする、他の組の男子や女子に武は緊張と一緒に競りあがってくる何かがある。初めて見るからこそ萎縮せずに勝りたいと思うのか、自分の出番が来たところで思い切り大きな声で叫んだ。
「いちねんごくみ! あいざわた――げほげほっ!」
 大きな声で叫びすぎて、咳き込んでしまった。武は口を押さえながら何度か大きく咳をした。すると咳き込みも収まり、息をつく。周りも笑いながら武を見ており、武は体を縮こませた。
「あらあら。元気すぎるのもいいけど落ち着いてね。お名前は?」
「あいざわ、たけしです」
 はい。良く出来ました。
 そう言って寺坂は次々と話題を振っていく。武は情けなくなってため息を付いた。せっかく目立つチャンスだったのにと。
「いちねんごくみ。かわさきゆなです」
 その名前に反応して振り向くと、視線の先には見知った顔があった。
 幼稚園に上がった頃から一緒に遊んでいた近所の女の子、川崎由奈。活発だった武についてくる数少ない女の子だ。家の近所にある公園で昼間から夕方までずっと走り回って遊んだこともある。小学生になって他の教室に別れてから少し会う機会が減っていたが、たまに帰る時に一緒に帰っていた。まさか自分と同じバドミントンを選んでいるとは思っていなかった。
 一通り紹介が終わり、まずは体育館の壁際を走っていくように言われる。上級生が先に走り、武達はその後ろについていった。走りながら前にいる由奈の元へと近づいた。
「ゆなちゃん」
「たけし君。咳してたね」
 笑いながら話す由奈に武は恥ずかしくなって顔を背けた。笑われるのは慣れない。自然と意地になって由奈の前に出て上級生についていこうとする。走り回っていた分、上級生についていくのはさほど難しいことではなかった。ただし、少しの間だけならば。
 走り終わる頃には武は息を切らせていた。
(やっぱり……走るの……疲れる……)
 元々走り回るのは好きでも、走るのが遅くすぐ疲れるためにバドミントンを選んだのに。これでは本末転倒だった。久しぶりに由奈と一緒にいれると思ってはしゃぎ過ぎている自分に、何故か分からないが恥ずかしさがこみあげてきた。
「たけし君、大丈夫?」
「うん……だいじょうぶ」
 由奈の問いかけに武は笑って答える。実際、最初が辛かっただけで今は落ち着いていた。既に上級生達はラケットを持って素振りに入っている。それを見て、次は武達の番というわけだ。武は由奈と一緒に見学をしている同級生の列に並ぶ。
 号令と共に一回、ラケットを振っていく上級生。その時に起こる風切音が武の耳にも届く。鋭く、ぶつかれば痛そうな音だ。
(痛そうだな……)
 痛い思いをしなくてすみそうなバドミントンを選んだのに、やっぱり痛そう。
 ことごとく思い通りにならず武は既に萎え始めていた。このまま続けられるのだろうかと不安になる。
「あんな風にラケット振れたらかっこいいよねー」
 由奈の目線が上級生に行って輝いていた。隣でそれを見ていた武は心臓のあたりがむずがゆくなり、軽く掻く。一体何かと思ったが、武にはどうしても分からなかった。ただ、由奈に微笑みかけられたり、由奈が他の人に目線を移す時にむしゃくしゃしてくる。
(むー。ゆなちゃん……)
 その視線を追って自分も上級生を見る。
 そして、そこにある綺麗なフォームに武は心を奪われていた。由奈のことが気にならなくなるくらいに、上級生のラケットスイングに釘付けになる。
 上級生が行っているのはただのオーバーヘッドストローク。しかし、一つの構えが続けて行われることで滑らかに移動していく。それが、とても綺麗で、武は由奈と同じように目を輝かせていた。
「はーい。じゃあ、次は君達もやってみようか」
 コーチの寺坂に言われて、武達も各々立ち上がる。そして等間隔で並んでから寺坂の言葉を一つ一つ実践する。
「まずはラケットをこうやって……背負うようにしてみて。その時、体重は後ろの足にかけてね」
 武は右足を後ろにしてラケットを背中に回し、体重を右足に集中する。すると前に出している左足が浮いて斜め上が見えた。
「それから左手を上げて、掌を上にしてね。その左手でシャトルに狙いを定めるようにしてみてねー」
 どこにもないシャトルをイメージする。左手の動きは好きなロボットアニメで武器で攻撃する前に動く丸いものに似ていた。それがぴたりと止まったところで攻撃するのだ。
「はーい、じゃあ、そこから思い切りラケットを前に振ってみてください。その時に勢いで後ろ脚が前に出るように」
 寺坂の号令に一斉にラケットが振られる。子供によっては上半身だけでラケットを振ったり、よろけて倒れてしまっていた。由奈もラケットの反動に体を支えきれずに前につんのめってしまう。
 その横で、武はラケットを振っていた。ラケットを前に押し出すように。そして反動で自然と後ろにあった右足が前に出る。前につんのめろうとした体を、右足がしっかりと支えていた。
「あらー。たけし君! 上手じゃないの!」
「え……えへへぇ」
 武は誉められたことで気分がよくなり、またラケットを振る。しかし、今度は上手く振れずによろめいてしまう。
 次以降は十回素振りをしたが一度も最初のように綺麗なフォームにはならなかった。
「はい、終了。次は基礎打ちに入りますね。慣れていけばみなさんすぐうまくなりますよ」
『はーい』
 一斉に答える中で武もいる。
 その声は先ほどまであった憂鬱な感情などない。
 一度できた理想のフォームを体現できなかった悔しさ。新しいことを知る嬉しさに満ちている。
(バドミントンって……楽しいかも)
 その思いが、始まり。
 武のバドミントンの始まりだった。
モクジ
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