空は心の闇とはまったく別に、青く澄んでいた。

 今、男の心の中にあるのは無力な自分への怒り。

 どろどろとしたその感情は、男の理性を徐々に溶かしていく。

(何も、できないのか……)

 あらゆる手は尽くしたのだ。

 歴史が紡がれてからの、現存する最高の魔道士である彼自身が。

 考えうる方法全てを行使してみても人の命一つ救えないのだ。

 自分の、最愛の者の命を救えないのだ。

 他の人々は救えても!

 最も大事なモノの命さえも救えないで、何が史上最高の魔道士なのだ!!

「俺、は……!!」

 両拳を壁に叩きつける。

 何度も、何度も。

 手が熱い。

 甲から流れ落ちる血が手を染め上げ、血を撒き散らしながら叩きつけられる。

「おれは……」

 流れる涙が、目に染みた。







『雪――Snow drop――』







 ヴァイス・レイスターはぼんやりと城内を歩いていた。

 年は十四、黒髪黒瞳。顔は美形というよりはまだまだ可愛らしい。

 少年から青年に移る途上の幼さがどうしても残る顔立ち。

 しかしその顔は熱に浮かされたようにぼーっとしている。

 廊下の窓から差し込む日差しはすっかり夏の色を示し、外のうだるような暑さを想像させる。

(やっぱり、暑いのって苦手だ)

 今のヴァイスの格好はというと、王立治安騎士団《リヴォルケイン》に支給されている鎧姿。

 史上最年少の騎士団長に任命されて一年。

 先ほどまで自分の部隊の兵士を訓練していたので、下着は汗を吸って重たい。

 額は流れていた汗が渇いてかさかさしている。

「……シャワーでも浴びて、少し眠ろう……」

 ヴァイスは疲れた声でそう呟くと自分の部屋へと歩き出した。しかし、ふと窓から外が見え

歩みを止めてしまう。

(あれは……)

 窓の外。

 この城の正面に位置している中庭の中央。

 そこにはこの国の守り神とされる神獣フィニスの像が立っているのだが、そのもっとも

日差しが集中する場所に一人、座っている人物がいた。

 像の台座に寄りかかってぼんやりと空を眺めている。ヴァイスには見ているだけで汗が

出てきそうな光景だ。

(なんで、あんな所に……)

 自然とヴァイスの足は自分の部屋から遠ざかっていった。

 途中に何人かの同僚とすれ違って声をかけられる。しかしヴァイスには構っている余裕は

なくなっていた。何故か急がなくてはならない気がしている。

 今、この時に会っておかないと後で必ず後悔するような、そんな感覚。

 最初は早足だったものがいつのまにか走り出している。

 息を切らし、先ほどまでおさまっていた汗が再び噴き出る。

 しかしそんな事はどうでもいい。

 今は急がなくてはいけないのだ。

 城から出て、中庭の一点を目指す。

 そこにはまだあの人影があった。

 ヴァイスは走るのを止めてゆっくりと近づいた。

 切れていた息を深く呼吸する事で穏やかにする。一瞬で呼吸を整えるのは騎士団では初

歩の鍛錬だ。それでもヴァイスは動悸を収める事ができずにいる。

(ただ、話し掛けるだけなのに……)

 理由はわかっていた。目の前にいる人物に話し掛ける。

 ただそれだけの行為にこうして心臓を鳴らしている。

「……フィアル」

 意を決してヴァイスは像の台座に寄りかかっている人物に話し掛ける。

 少年のような顔立ち、体格。

 ヴァイスとほぼ同じか、それよりも年下に見えるほどだ。

 しかし外見とは違い、まとっている雰囲気は大人のそれ。

 色素の薄い髪が太陽の光を浴びて茶色に透き通って見える。

 その人物――フィアル・ノイエンはヴァイスのほうを向かずに言った。

「なんだい? ヴァイス」

「その……こんな所で、何をしてるの?」

 ヴァイスはフィアルの横に歩いていった。フィアルは長い杖を腕にはさみ、ちょうど体育

座りのようにして座り込んでいる。ヴァイスも隣に腰を降ろした。

「暑いだろ? こんな所で」

「そうかい? 僕にはこのぐらいの温度が丁度いいんだけどね」

 フィアルの顔には汗一つ浮かんではいない。格好はヴァイスとさほど変わらないはずなのに。

 どうやら本当に暑くはないようだ。

「それで、ここで日向ぼっこでもしてたの?」

 ヴァイスは何故か恐る恐る尋ねる。自分でもそんな気分になっている理由を知らずに。

「雪が降らないかなって思って」

「……雪?」

 フィアルの言葉にヴァイスは眉をひそめた。

 真夏の、日差しの強いこの日に雪。

 全く正反対の要素をもつ物の望むかのように空を見上げるフィアルにヴァイスは違和感

を感じざるを得ない。

「そう。真夏に降る雪と言うのもいいかなぁって思って」

「そうかな……。真夏に雪が降っても、すぐに消えてしまうよ」

「だからだよ」

 フィアルは初めてヴァイスを見た。その瞳は優しく、ヴァイスは一瞬呆気に取られる。

「すぐに消えてしまう雪。だからこそ、その存在は鮮明で、峻烈だ」

 フィアルの言葉にヴァイスは動けなくなった。言葉の一つ一つが重い。そんな気がした。

「少し、話でもしようか」

「話?」

「そう、昔話さ」

 フィアルは空を見上げ、目を細めた。ヴァイスもつられて空を見上げる。

 惜しげもなく光を放つ太陽と、雲一つ見えない晴天。

「昔々……歴史上最高の魔道士の、物語さ」

 フィアルの声が、何故か遠くに聞こえた気がした。







「もう、助からないというのか?」

 部屋の中に怒気が満ちた。

 その場に居るのはベッドに寝ている少女と白衣を着た男。そしてもう一人。

「人を救うのが医者だろう! 何故治せないんだ!!?」

「当たり前だが、医者は万能じゃないんだ。君達、魔道士とは違って」

「―――――!!」

 男は医者に掴みかかる。医者は凄まじい力で吊り下げられても苦しそうな顔一つ見せず

に男に視線を向ける。悲しい視線、その意味は男にも伝わっている。

「万能のはずの君達魔道士でも治せない。この結果はわかっていたんじゃないか?」

「……こ、の!」

 息が詰まる。

 男は乱暴に医者を突き放した。医者は白衣をただすと医療道具を持って出て行った。

 もう男も医者を止める気はない。拳を握り締め、口を噛み締めているだけ。

 静かにドアが閉められる。

 窓から差し込む光。

 真夏の光は部屋の中を暖かく包み込む。男の心の中に生まれた底冷えのするモノをも包む。

「……やっぱり、無理だったんだね」

 ベッドに寝ていた少女が眼を開けた。顔は青白く、元気だった頃には綺麗だった黒髪は

すでにくすんでいる。体重も今は生きていくための最低限しかないだろう。

 男は横にある椅子に座って少女の手を握った。

「……そう、みたいだ」

「残念だなぁ……。もう少し、生きていたいよ」

 死の宣告を受けてもなお、少女は明るかった。こけた頬を上げ、笑顔を見せる。

 死ぬ事への恐怖よりも、もう生きていられない事が残念という気持ちの方が強いようだ。

「どうしてそんなに……明るいんだよ」

 握った手の上に雫が落ちる。少女は驚いた顔で男の顔を見た。

 男は泣いていた。少女が記憶するかぎり、男が泣いているのを見たのは初めてだった。

「泣いてくれるんだね。わたしのために」

「当たり前だろ。お前は、俺の――」

「言わないで」

 少女が男の言葉を遮る。男ははっとした顔で少女を覗き込んだ。少女の言葉に拒絶の意思

が込められていたからだ。

「それから先を言ったら、きっと後悔するよ。お互いに」

 少女は静かに男の手を外した。

「もう寝るね。疲れちゃった」

「ああ……。ゆっくり休みな」

 男は立ち上がって部屋から出て行こうとする。それを後ろから少女が止めた。

「一つだけ、お願いがあるんだ」

「何?」

 男は振り向かない。振り向けなかった。今の自分の顔はとても少女には見せられない。

 自分が憔悴しきった顔を少女には絶対に見せたくなかった。先ほど、涙を見せたのも失

策だと思ったほどだ。

「死ぬ前に一つだけ、見たい物があるんだ」

「見たい物?」

「うん。わたし……雪が見たい」

 少女は少し苦しげな息を混ぜながら言う。男は答えない。しかし少女はそのまま続ける。

「あの雪の中で死ねたら、どんなにいいかって思うんだ。真っ白くて、わたしも雪の中に

融けていけるみたいで――」

 男は部屋を後にした。これ以上少女の苦しげな声を聞くことはできなかったのだ。







 数百年前、この世界に一人の男が生まれた。

 その男は歴史上、最高の魔道士と後に呼ばれるようになっていた。

 魔力は他の追随を許さず、魔道士の中の魔道士、『ロード・オブ・ソーサラー』の称号

を得た魔道士。

 名前は後の歴史書には記されていない。

 その理由も分からない。

 ただ、居たという記録が残っているだけ。

 何故そこまでの称号を得た魔道士の情報が残っていないのか今だ謎である。







 男は少女の家から出ると道をただまっすぐに走っていた。

 空は心の闇とはまったく別に、青く澄んでいる。

 今、男の心の中にあるのは無力な自分への怒り。

 どろどろとしたその感情は男の理性を徐々に溶かしていく。

(何も、できないのか……)

 あらゆる手は尽くしたのだ。

 歴史が紡がれてからの、現存する魔道士の中でも最高の自分が。

 考えうる方法、全てを行使してみても人の命一つ救えないのだ。

 自分の、最愛の者の命を救えないのだ。

 他の人々は救えても!

 最も大事なモノの命さえも救えないで、何が史上最高の魔道士なのだ!!

「俺、は……!!」

 認めたくない。

 自分が無力だという事を。大切な物を失ってしまう事を!!

 男は走っているうちに公園へと足を踏み入れていた。

 真夏の日差しを嫌ってか、周りには誰も居ない。

 公園に立つ時計台の所につくと男は両拳を壁に叩きつけた。

 何度も、何度も。

 手が熱い。

 甲から流れ落ちる血が手を染め上げ、血を撒き散らしながら叩きつけられる。

「おれは……」

 流れる涙が、目に染みた。

(ワカッテイタノダ)

 心のどこかから声がする。

(ソレデモ、サイゴノノゾミニスガリタカッタ)

 それは冷静で、怒りと悲しみで煮えたぎっている心を浄化させる。

(ジブンハイイキニナッテイタダケナノダ)

 その言葉は辛らつで………。

(サイコウノマドウシダトチヤホヤサレテ、ナンデモデキルトオモッテイタ)

 臓腑を抉る。

 男は力尽きてその場に崩れ落ちた。

 体を襲う、抗いようもない虚脱感。

 なんとか体を反転させて時計台の柱に体をもたげる。

 空は青い。

 抜けるような青さとはこの事をいうのだろう。

 その青を見ているうちに男は完全に冷静さを取り戻した。

「雪が、見たい……か」

 冷静になると、少女が言っていた言葉を思い出す。

 雪の中で死ねたら―――

 そう、少女は言っていた。

 それが少女の望みなのだ。

 生きたいと望むよりも、雪の中で死にたいと望んだのだ。

 男は立ち上がった。

 その瞳には先ほどまでの焦燥など微塵もない。

 男は思い出していた。

 今は昔の美しさなど、見る影もなくなってしまった少女。

 しかし少女の瞳だけは昔と変わらず輝いていた事を。

 昔と変わらない美しさだったという事を。

「叶えてやる。お前の最後の願い……。それができなくて、何が最高の魔道士だ!」

 男は両腕を高く掲げた。

 たとえ命を救う事が出来ないとしても、心を救ってみせる!

 心からの誓い。

 最も大事なものを失う事実を認め、覚悟を決めた瞬間だった。







 天候を操る魔術。

 それは自然の摂理を曲げる事。

 天の理に背く事は、世界への冒涜。

 行ってはいけない魔術の一つだった。

 しかし男には関係がなかった。

 男の胸の内にあるのは一人の少女の願い。

『雪が見たい』という少女の最後の願い。

 叶える事が出来るならばもう何もいらない。

 たとえ世界を敵に回しても、彼女の願いは叶えてみせる。

 男には分かっていた。

 この魔術を自分は完成させる事ができるだろう事を。

 他の魔道士ならいざ知らず、最高の魔力を誇る自分なら。

 そんな自分でも、この魔術には代償を払わなくてはいけないという事を。

「……」

 男は少女の家の前に居る。

 少女が居る部屋を見上げる。ただ、優しい瞳を持って。

「さよなら」

 ただ一言。

 風が巻き起こり、その場から男は消えた。

 誰も気付く事もなく、少女も気づかない、静かな、別れの言葉だった。







「……?」

 少女は眼を開けた。

 誰かが自分を呼んだ気がしたからだ。

 もうほとんど動かなくなった体を何とか動かしてベッドから立ち上がる。

 ゆっくり、ゆっくりと窓側へと歩み寄り窓を開けた。

 そこに入り込んでくるモノ。

「あ……」

 少女は信じられない物を見た。

 相変わらず自分を照らしてくる真夏の太陽の光線。

 ここ数日かげる事のない晴天。

 そして、蒼の狭間から降り注いでくる白い雪――。

 外を歩く人々が驚いて空を見上げるのが見える。

 誰もが真夏の雪というありえない事象に驚きを隠せないようだ。

 この奇怪な現象の真実を誰もが知らない中、少女だけは分かっていた。

「……ありがとう」

 少女は胸にしていたペンダントを外して中を開いた。

 そこにはあの男との二人の写真。

 自分の―――最愛の人との写真。

 自分が生きていた唯一の証。

「……ほんとうに、ありがとう……、――――」

 少女の口から言葉が洩れる。

 その時、雪をまとった風が巻き起こり最後のほうはかき消されてしまう。

 少女の眼から零れる涙を風が運んでいく。

 やがて雪がやんだ時、少女の命は消えていた。

 その寝顔はとても安らかで、幸せに見えた。







「悲しい話だね」

 ヴァイスははぁ、と溜息をついた。フィアルの語る物語はとても上手で、まるで現実に

目の前で展開されているようだ。

「男は禁忌を侵してしまった。そして……『時』を失った」

「『時』?」

「強大な魔力の消費の反動で、体の組織に負担がかかりすぎたんだ。そして細胞が分裂す

る事を止めてしまった。他にもいくつか要因はあったと思う。簡単に言うと男は、外見上

は歳をとる事なく、歳をとる事になった」

「……外見は若いままって事?」

 フィアルは軽く頷いた。その瞳は遠くを見ているようでヴァイスを不安にさせる。

「そうだね。男は、幸せだったと思うかい?」

 唐突に質問されてヴァイスは戸惑った。

「自分の最も大事な少女を守れなかった男は、自分の人生を捨ててまで少女の最後の願い

を叶えた。その事を、君はどう思う?」

 フィアルの声は真剣そのものだ。いつのまにかヴァイスの顔を一直線で見つめている。

 悩む必要なんてない。

 男の話を聞き終えた後で感じた事をそのまま話せばいい。

「よかったんじゃないかな?」

 フィアルは表情を変えない。ヴァイスもゆっくりと言葉を続ける。

「きっとさ、男がした事は全体で見たら悪い事だと思う。勝手に天候を変えたりする事の危

険性は分かる。でも人間なんていつも正しい事なんて出来やしないんだ。だからこそ、自分

の一番大事だと思う事をする事に価値はあるんだと思う」

 ヴァイスはズボンの埃を払って立ち上がった。

「それに、きっとその男の人は後悔していないと思うよ。なんとなくだけど、そう思う」

 そのままヴァイスはフィアルから離れていった。

「部屋に帰って一休みするよ」

 一言、言葉を残して。

 その場にはフィアルだけになった。フィアルは空に視線を向ける。

 抜けるような青空。

 そこから降ってくる雪。

 もちろんそれは現実ではない。

 フィアルの頭の中に描いた映像を通して見ている、想像上の物だ。

「後悔していない、か。そうかもね」

 フィアルはポケットに手を入れて引き出す。

 手にはペンダントが握られていた。

「大丈夫。後悔はないよ……」

 フィアルは優しくペンダントを開く。

 そこには映っているのは一組の男女。

 二人の顔にある、最高の笑顔。

 とても幸せそうに、写真の中で二人は笑っていた――――――





『雪―――Snow drop―――』〜Fin〜