『あなたの名前はルシータよ』

 その声を覚えているわけが無かった。

 名前が付けられた時はあたしは生まれてすぐだったんだ。

 でも、何故か頭にその光景が浮かんでくる。

『きっとわたし達みたいに美人になるわよ』

『そうね。お父様の遺伝子が入らなくて良かったわね』

『こらこら、それではわたしが美形ではないみたいではないか』

『実際、あまりお父様は顔は良くないですよ』

『ふはは、確かにな』

『―――――』

 これがあるはずの無い光景だという事は分かっていた。

 そう、あるはずがなかったのだ――――







『記憶――Point Of No Return――』







 ルシータ=アークラットはベッドの中で眼を覚ました。完全に覚醒するまでしばらくそのままでいる。

(何であんな夢見たんだろ)

 それはしばらく見てはいなかった夢だった。

 まだ小さい時には何度も何度も見ていた夢。

 しかし時が経つにつれて、それが叶うはずが無い事だと理解してからは見ることは無かった。

(疲れてるのかなぁ……疲れているのよね、きっと)

 ルシータはベッドから出て備え付けの洗面所で顔を洗う。

 冷たい水は肌に痛かった。それは心の琴線に触れるものでもある。

(家を飛び出してから、もう五年か……)

 顔を拭いてからベッドに再び横になる。

 勢いよく倒れこんだためにベッドのスプリングが悲鳴をあげるのが聞こえる。

 そのままルシータは記憶の海に埋もれていった。





 自由都市『クレルマス』

 この世界では大抵の大都市は王都『ラーグラン』から間接的な統治を受けている。

 街を統括する長には王都の命がいろいろと伝えられているのだ。

 クレルマスはその中で唯一そう言った干渉を受けない都市だった。

 クレルマスは大陸南に位置する商業都市『ルラルタ』と並び商業が盛んである。

 そのために金を手に入れた富豪達が何人も集まって、長い間をかけて協力し、遂に自治権を手に入れたのだ。

 アークラット家はその富豪達の中でも最も栄えている家である。

 事実上、街を統治していると言ってもいい。

 そのアークラット家の三女として、ルシータ・アークラットは生を受けた。





「ルシータ? ルシータ、何処へ行ったの?」

 ルシータの名を呼びながら庭園を歩いている少女がいた。

 おしとやかな物腰。着ているドレスに似合った美しい顔。

 まだ大人になりきれていない少女は、その時期特有の美しさが際立っていた。

 流れるような金髪は三つ編みにして肩から下がっている。

「ここよ。ルキアお姉さま!」

 その少女――アークラット家長女ルキアは声のした方向に顔を向けた。

 そこには満面の笑顔でこちらに向かってくる少女。

 まだまだ子供で女らしさなど欠片も見えない。

 しかしこの快活な妹を、ルキアはとても気に入っていた。

 走って傍まで来た妹の姿を見てルキアは少し顔をしかめた。

「ルシータ。また近所の子供と喧嘩したのね」

「だぁって、あっちが悪いんだよ。だからこらしめてやったんだ!」

「まったく……」

 勝気なルシータを好きなルキアだったが、ルシータが怪我をしてくる度に気が気ではなかった。

 そこに鋭い声が突き刺さる。

「まったく。またそんな格好をしてきおって。アークラット家の恥さらしが!」

「お父様……」

「……」

 髪は少し白髪が混じっていたが、その威圧感は鋭い物だった。

 レギンス・アークラット。アークラット家の主である。

 レギンスは単なる毛嫌い以上の憎悪を持って口髭を触りながらルシータに吐き捨てた。

「お前のような奴はそのまま死んでしまえばよかったんだ。子供同士の喧嘩での事故という形でな」

「お父様! それはあまりにも酷い言葉です!」

 今まで見たことも無かったルキアの剣幕にルシータは驚いてルキアを見上げた。

 しかしレギンスはふん、と鼻を鳴らして何も言わずにその場から去っていった。

「……ルシータ。気にしないで、なんて言えないけど、私達があなたを守ってあげるわ」

「……ありがとう」

 ルシータは素直にそう思った。その後に父親の顔を思い浮かべる。



「お父様なんか、嫌い」





 ルシータがもしかしたら自分の子ではないのではとレギンスが思ったのは、ルシータが生まれてすぐだった。

 その頃、レギンスは新たな事業を始めようとしていたために妻のパーラシスと疎遠になっていた。

 そんな状況でパーラシスが身篭ったという事実が発覚する。

 しかしレギンスは何か釈然としないものがあった。

 パーラシスとの夜の営みは全く無かったとは言わないが、ほとんど無い。

 新たな命が宿るには、少々上手くいきすぎではと思っていた。

(調べてみるか)

 レギンスは用心深い性格から探偵を雇ってパーラシスの周囲を調べさせた。

 そしてパーラシスとここ最近会っていた男を見つける。

 その男はアークラット家とは少し疎遠な小富豪の家の者で、どうやらパーラシスを通して取り入ろうとしたらしい。

 レギンスは思った。

(まさか、パーラシスが浮気を?)

 レギンスは自分のプライドが傷つけられたと感じた。

 すぐさまパーラシスを詰問し、妻は浮気を認めた。

 しかし肉体関係は全くなかったと否定する。

『本当です! 恋人ごっこのようなものだけだったのです!』

『お前に分かるのか? 私がどれだけプライドを傷つけられたのか!!』

 その男をレギンスは社会的に抹殺し、パーラシスにも事実上の監禁を命じた。

 そしてルシータが生まれる。

 レギンスは、ルシータを否定した。

(他人の子かもしれない娘だと? そう思っていて、育てるなんて、最大の屈辱だ!)

 この時、レギンスはうすうすルシータは本当の子だとは思っていた。

 しかし自分の配慮の足りなさからパーラシスの浮気を招いた事で、自分の不甲斐無さに腹がたっていた。

 やり場の無い怒りを大人気なくルシータにぶつけてしまったのだ。

 もう後には引けなかった。

 レギンスのこの考えは最後まで彼の中に秘められたまま終わる。





 その日は晴天だった。

 ルシータは一人、部屋にこもっている。11歳の少女にしては不本意な扱いだった。

 父親は仕事上の仲間と共に留守。

 母親と上の姉二人は街まで買い物に出ていた。

「早く来ないかなぁ、お母様とお姉さま達」

 揺り籠のような椅子に座って前後に体を揺らしながらルシータは待っていた。

 その内、心地よくなり睡魔がルシータに忍び寄る。

「帰ってきたら、またお姉さま達に遊んでもらおう。今日は、お父様もいないし」

 安堵の溜息をついてルシータは眠りに落ちた。

 しかし、それが最後の休息になろうとは思いもしなかった。

「お嬢様!」

 その声にルシータは驚いて飛び起きた。

 時計を見るとまだ三十分ほどしか経ってはいない。

 自分を見るメイドのおばさんの瞳が尋常じゃない事態を子供心に思わせた。

「どう、したの?」

「お、お、奥様と……お嬢様方が!」

「……え?」

 こうしてルシータの日常は消えたのだ。





 雨が降っていた。

 降りしきる雨が墓石を濡らす。

(寒そうだな)

 ルシータは傘を差して墓石の前に立っていた。雨に濡れる墓石が痛々しく見える。

 墓石に刻まれた名前は三つ。

 パーラシス・アークラット

 ルキア・アークラット

 セレーナ・アークラット

 自分を大事にしてくれた肉親。

 父親の愛を知らない少女にとって家族愛というのを教えてくれたかけがえの無い存在。

 それが永久に失われていた。

 単純な事故。

 街中を暴走した馬車がパーラシス達が歩いていた歩道に突っ込み、三人を巻き添えにした。

 馬車を運転していた人も首の骨を折って即死。

 怒り狂ったレギンスは馬の所有者にまで圧力をかけ代償を払わせた。

 しかしそんな事をしても、もう三人は帰ってこない。

 もうこの世の何処にも、自分の頭を撫でてくれる人はいないのだ。

「お母様……ルキア姉さま……セレーナ、姉さま……」

 ルシータは泣いた。雨音にかき消されても、泣き続けた。

「こうなるとやはり、後継ぎはルシータちゃんか」

 後ろから親族の声が聴こえてくる。

「レギンスには息子がいなかったからな。ルシータが誰か有力者に嫁ぐしか手は無いな」

「いやだわ。こんな席でそのような話をしなくても……ルシータちゃんに聞こえます」

「聞こえても意味は分からんよ。まだ、彼女は幼い」

 ……聞こえていた。

 そして意味も分かっていた。

 周りのみんなは自分のお母様や姉さま達が死んだことよりも、これからのアークラット

家の事が心配なのだ。

 それはとても嫌だった。

『アークラット家』というブランドに振り回されるのはごめんだった。

 ルシータはそして、一つの決心をした。





 トラントは自分の寝室の窓を何かが叩く音を聞いて目が覚めた。

 気になってカーテンを開けて外を見る。そこには顔なじみが立っていた。

「ルシータちゃん……」

 ルシータは身振りで外に出てくるよう伝えてきた。その格好を見てトラントは不思議に思い

家の外に出た。

「どうしたんだい? こんな朝早く」

「あたし、家をでる」

 その瞳は冗談を言っている目ではなかった。追い詰められた動物のような目。

 トラントは否定の言葉がいくつか浮かんだが、言えなかった。

「……お母さん達が、死んだからかい?」

「親戚はこれからの家の事しか考えてないわ。あたしは『アークラット家』って言うのに

振り回されるのはこりごり。お母様を信じなかったお父様なんて嫌い。

 お姉さま達の死を悲しまなかったお父様なんて……大嫌い」

 ルシータの見た限り、レギンスは三人の死に悲しみを見せなかった。

 それが幼いルシータには決定的な父との断裂となったのだ。

「じゃあ、あたしは行くわ。ハンスにもよろしく言っておいて」

 トラントと共に話し相手だった男の名を言ってルシータは背を向けた。

 トラントはその背に向けて何とか言葉を搾り出す。

「ルシータちゃん。自分を大切にな! 君が悲惨な目にあったら……俺も悲しいからな」

 ルシータはトラントに振り向いて笑みを浮かべた。

「ありがとう。トラントさん」

 その笑顔は年不相応に大人びて見えた。

 賢くなるしかなかった。

 自分に辛い家庭環境の中では。

「……どんな形でも、生きていてくれ。そしてまた顔を出しておくれ」

 トラントは小さくなっていく背中をじっと見ていた。

 やがてルシータの姿が完全に視界から消える。





 ――――ルシータの捜索願が出たのはそれから数時間後の事だった――――





 それは自分の失敗だった。

 夜に何を思ったのか買い物に出た。

 そして今、ゴロツキに追われている。

 簡単な構図だった。

 確かに疲れていたのかもしれない。

 身を隠して動く事に疲れていたのかもしれない。

 日中に昔の事を思い出したのもやはりそのためだったのだろう。

 入り組んだ路地裏を疾走する。

 しかし目の前に行き止まりが見えた時、ルシータの顔に絶望が浮かんでいた。

 振り返るとゴロツキが四人、自分を取り囲んでいた。

「おい、こいつアークラット家の家出娘だぜ」

「こいつを差し出せば何万ルムももらえるぜ」

「別に五体満足でって書いてないよな。ちょっと味見しようぜ」

「そうだな……」

 やはり父親の捜索願からの刺客だったらしい。

 ルシータはこれから自分の待ち受ける運命を呪った。

(自分が一体何をしたの? あたしはただ生まれただけなのに、どうして父に嫌な顔を

されなきゃなんないのよ。私になんて結局存在価値、ないんだ……)

 考えている事は支離滅裂だった。手を伸ばしてきたゴロツキ達に必死で抵抗するが女と

男の力は違いすぎた。

 ゴロツキ達はルシータが無抵抗になったのを観念したのだと思いその服に手をかける。

 その時。

「いいかげんにしろよな」

 ゴロツキの後ろに先ほどまでいなかった男がいた。

 ルシータはその男をぼんやりと観察する。

 赤いバンダナを頭に巻き、白いジャケット、下はジーンズ。上着の下には蒼いシャツ。

 腰には短剣だか長剣だか分からない代物を下げている。男はむしろふっと何も無い空間

から現れた、と言ったほうが当てはまるかもしれない。

 そんな登場の仕方だった。

「な、なんだて……」

 驚いたゴロツキの一人が振り返りざまに手に持っていた獲物のナイフを振りぬいた。しか

し、次の瞬間にゴロツキは宙を舞っていた。

 数メートル吹っ飛び壁に激突するゴロツキ。

 ぐえぇ、と呻き声を出して意識を失う。

「この野郎!!」

「なめんじゃねぇ!」

 ルシータを押さえた一人のゴロツキを残して残りは現れた男に向かっていった。しかし

次々と吹っ飛ばされて倒されていく。数分もしない間にそこには男とルシータ、そしてル

シータを押さえていたゴロツキの三人が残るだけとなった。

「う、動くんじゃねぇ! この女、殺すぞ!!!」

 ゴロツキは半狂乱になって持っていたナイフをルシータの首筋に押し付けた。男は右手

を二人のほうへとかざす。

「なんの……」

 ゴロツキが叫びきる前に男は小声で呟いた。

「『銀』の翼」

「……まね……だ……?」

 男が呟き終わるのとゴロツキの叫びが終わるのはほぼ動じだった。

 そしてゴロツキの手の中のナイフはどこかへと消えている。

 驚くゴロツキの顔面を音も無く近づいた男の右拳が粉砕した。

 男は地面に呆然と座り込んでいるルシータに近づく。

 ようやく意識を取り戻したルシータは、眼前に自分を助けてくれた男がいることに緊張

のために赤面した。

「大丈夫か? ルシータ・アークラット」

 それが彼との出会い。

 ルシータにとって、人生を左右する大切な出会い。

 その時のルシータにはまだそれが分かっていなかったが。

 ルシータの止まっていた時間は、この時から再び動き始めたのだ―――――





『記憶――Point Of No Return――』 〜fin〜