それは一目惚れだった。

 彼女が俺達の前に先生に連れられて来た時、俺は初めて恋をした。

 彼女がここに来たのは俺と同じく四歳の時。

 新品の黒のローブを着て、顔は強張っている。

「彼女がこれから一緒に勉強する事になる、レイン・レイスター君だ」

「よろしく……」

 その瞳に映るのは不安と、期待。

 どちらかと言うとまだ不安のほうが勝っていた。

 俺はまだ4歳という年齢ながらも彼女の不安の原因は分かっていた。

「僕、ラーレス。ラーレス・クルーデル」

「わたしはクーデリア・エーデルよ」

 列の一番前にいた俺と、クーデリアが真っ先に彼女に話し掛けた。

 彼女は少しおずおずとしていたが、やがて笑みを見せた。

「よろしくね」

 それが俺達の始まりだった。







『絆――First Step――』







 魔術都市『ゴートウェル』

 世界の魔術師の総本山。

 数多くの魔術師を輩出し、王都の重要な役職につけたりするなど、世界第二の都市である。

 この街の中心に魔術師養成機関《クラリス》があり、そこには数百人の魔術師がいた。

 年齢はまだ四歳になるかならないかから、七十歳以上の老人までいる。

《クラリス》内の一区画。そこを一人の少女が歩いていた。

《クラリス》で学ぶ者の証である黒いローブ。

 髪の毛を肩のあたりで切り、少しカールがかかっている。

 その瞳は強い意志を感じさせ、しかも美人。

 容姿に加えて内から滲み出る力強さが彼女をまた魅力的に見せていた。 

「おーい。レイン!」

 歩いていた少女に声をかけて近づく男が一人。黒髪短髪の、顔立ちが整った少年である。

「あ、ラーレス。どうしたの?」

 男――ラーレスが息せき切ってかけてきたラーレスを見て、レインは不思議な顔をする。

「ああ。一週間前に借りた『魔術大全』もう少し貸してね。もう少しで新しい魔術ができそうなのよ」

「いや、そんなんじゃなくてな」

 ラーレスは何故か言うのを躊躇っているかのようだ。

 レインはそんなラーレスの様子を不思議そうに見ている。

「……じゃあ、何の用?」

「本当に思い浮かばないのか?」

 ラーレスは少し呆れたような声を出す。その事にレインは頬を膨らませる。

「もう。もったいぶってないで言ったらどう」

「分かったよ。……これ」

 ラーレスは少しぼそっとした声で言うとポケットから小箱を取り出した。

 紫の箱に綺麗なリボンがつけてある。

 レインは最初よく分からないといった顔をしていたが、やがて合点がいった様で顔が綻ぶ。

「そうよね。今日、わたしの誕生日じゃない!」

 レインはラーレスの持った箱を手に取ってリボンを静かにほどいていく。

 箱を開けたレインは顔をぱぁっ、と輝かせて喜びを露わにした。

「綺麗……」

 それは指輪だった。精巧な銀細工の煌く指輪。

「15歳、おめでとう」

「ありがとう。高かったでしょ?」

「ん……まあ、な。少しずつ金を貯めたんだよ」

「なんか悪いわ。じゃあ、ラーレスの誕生日にはもっといいものをプレゼントしなきゃ」

「いいよ。俺の好意であげたんだから」

 ラーレスの顔が話す度に紅潮していく。

 しかしレインは平然とした顔で指輪をはめて手を伸ばして眺めている。

「ありがと。大事にするね。それじゃーね!」

「あ……」

 レインは呆気に取られているラーレスを尻目にそのまま去っていった。

 しばらくその場に佇むラーレス。

 後ろから肩を叩かれて振り向くと、一人の少女が立っていた。

「ラーレス。いいかげん言葉で言わないとレインには通じないわよ」

「クーデリア……」

 ラーレスは溜息をついてからクーデリアと歩き出す。

 長い黒髪が風になびき、クーデリアは片手で抑えながら言う。

「レインって恋愛とかそういうの、全然鈍感なんだから。はっきり言っちゃいなさいよ」

「でも、レインって何人かに告白されてて、しかも断ってるんだろう?」

 レインはその魅力的な容姿から何人かに交際を申し込まれていた。

 同年代からはもちろん。

 年下や、年上。しかも10も年上の教師にも言われると言う、《クラリス》内のアイドル的存在だった。

「うーん。でもどうしてかなぁ。恋愛に興味がないってわけじゃないみたいなんだけど」

「……もしかしたら、王都に好きな人でもいるのか」

「それはないんじゃない? レインが来たのは4歳の時よ」

「――? あれは……」

 ラーレスは会話を中断させてある方向を見ていた。

 そこには一本の木。

 そしてその下にはレインがいる。

「レイン、あんな所で何をやってるんだろ?」

「……あの木……?」

 ラーレスはその木に何か見覚えがあった。

 しかし何だったかは思い出せない。

 隣を見るとクーデリアも同様のようで、何が引っかかるのかを思い出そうとしていたようだ。

「あの木って確か、ムスタフ師が提供したやつでしょう?」

「ああ。確か俺達が来た時にはもうあったよな。あの時はまだ今よりは小さかったが……」

 レインはしばらくその木を眺めていたが、その場を立ち去った。

 木を眺めるレインの顔は、今まで見たこともないような笑みに満ちて――

(いや、確か一度あったような気がする。あれは……)

 結局、その場では何も浮かばずにラーレスとクーデリアはそれぞれ魔術の授業に向かった。

 その一日、ラーレスは心の中にあるもやもやが取れなかった。





 基本的に魔術師は早熟である。

 理由は簡単で、魔術を扱うには強靭な意志と精神力が必要とされる。

 そうしなければ死ぬ可能性もあるからだ。

 意志と精神力の強さは大人。

 しかし考えのレベルはまだ子供。

 まだまだ社会的に正しい思考と言うのは身についてはいない。

『あいつ、気取っちゃってさ。何様のつもりだよ』

『そりゃ、魔術の才能は凄いけどな』

『お高く止まってんじゃないの?』

『所詮天才様の考えは僕らには分からないよ』

 少女は一人だった。

 子供はとかく、自分と異質なものを嫌う。

 幼さに不釣合いな才能を持った少女は、いつしか周りから孤立していた。

 過去のある地点。

 その日は午後から雨が降っていた。

《クラリス》で学ぶ者は内部にある宿舎に住む事が義務づけられている。

 宿舎は《クラリス》の端にあり、学び舎とはかなり離れている。

 そのために傘を忘れた少女はずぶ濡れになるのを覚悟しなければならなかった。

『――馬鹿だね。傘を忘れるなんて』

 後ろから聞こえてくる声にも少女は反応しない。

 聞こえた素振りを見せては、弱みを見せてはいけない。

『待っていれば、誰かが傘に入れてくれるとでも思ってるのかな?』

 必死に感情を押さえつける。

 見抜かれてはいけない。

 弱みを見せてはいけない。

 幸い、少女には卑屈にならない程の才能があったためにまだ自制できていた。

(見せない。見抜かれない。絶対に)

 少女は知らず知らずの内に口を噛み締めていた。





(……)

 玄関で雨が降り注いでくる様を見ている少女を、遠くから少年が見ていた。

 手には傘。

 視線は少女しか見ていない。

 挙動はどこか不自然で、その場から動こうと何度もしながらも、結局思いとどまっている。

 その顔はどこか戸惑いがあるようで、どうやら少女に声をかけようかどうか迷っているようだった。

(傘に入るかい? と言うだけなんだ。それだけなんだ)

 少年は何度も自分に言い聞かせながらもその場から動けない。

 少年もまた、周りと違う事をする事に戸惑いを感じていた。

 少女を傘に入れることによって自分に降りかかる事を少年は理解している。

 周囲にとっては対象が一人から二人に増えるだけでそれほど支障はない。

(なんて僕は弱いんだ。好きな娘にさえ、正直に助けてあげられない)

 自己嫌悪。

 少年はいつしか眼に涙を浮かべていた。

 悔しさと、そう感じてはいても少女に手を差し伸べる行動をしない自分の情けなさに。

(くそ……)

 少年の視界が、歪んだ。





「寝覚めは最悪だな……」

 ラーレスは陰鬱な声で呟くとベッドから起き上がった。

「そういえば、あんな事もあったか」

 備え付けの洗面所で顔を冷たい水で濡らす。

 水の冷たさが脳の働きを活発にしていった。

 顔を拭いてふと窓から外を見る。

 外を歩いている人影が見えた。

「レイン……?」

 ラーレスは時計を見る。遅いと言うわけではないが、まだ平均的な睡眠時間の間だ。

「一体、どこに?」

 ラーレスは少し考え込むと、意を決してローブを纏った。





 レインは一本の木の下に立っている。

 幹に手を触れて、いとおしそうに見つめる。

 まるで愛しい人にでも会っているかのように。

「レイン」

 かけられた声に後ろを振り向くとそこにはラーレスがいた。

「ラーレス。どうしたの? こんな朝早く」

「それはこっちの台詞。この木……が何かあるのか?」

 レインはラーレスの言葉に顔をしかめた。

 そしてその顔に徐々に怒りが浸透していく。

「覚えていないの?」

 口調にもはっきりと怒りが滲むのを見て、ラーレスは自分が触れてはいけないものに触れたと知った。

「ラーレスが覚えていないって事は、クーデリアもかなぁ。そう、か」

 ラーレスは次の瞬間、自分の眼を疑った。そして最大の後悔を体験する。

 レインの瞳には涙が浮かんでいた。

 雫が頬を滑って落ちる。

 レインは無言のままラーレスから離れていった。

「……」

 ラーレスは目の前の木に手をついた。眼を閉じて必死になって記憶の底から何かを呼び覚まそうとする。

(俺は何を忘れていた? 俺はレインの心を傷つけた。俺はどうしても思い出さなければいけない!)

 木――クーデリアと俺とレイン――木――涙――

(涙?)

 ラーレスの脳裏に一つの出来事が浮かんだ。それからは早かった。

 一つのキーワードによって記憶の洪水が押し寄せ、一つの記憶を呼び覚ます。

(あれは、そう。レインが来て、一年が経った頃……)





 少女は傘を忘れていた。

 周りから阻害されていた少女に傘を差し出すと友人はいず、少女は途方に暮れた顔で空を見ていた。

(……)

 玄関で雨が降り注いでくる様を見ている少女を、遠くから少年が見ていた。

 手には傘。

 視線は少女しか見ていない。

 挙動はどこか不自然で、その場から動こうと何度もしながらも、結局思いとどまっている。

 その顔はどこか戸惑いがあるようで、どうやら少女に声をかけようかどうか迷っているようだった。

(傘に入るかい? と言うだけなんだ。それだけなんだ)

 少年は何度も自分に言い聞かせながらもその場から動けない。

 少年もまた、周りと違う事をする事に戸惑いを感じていた。

 少女を傘に入れることによって自分に降りかかる事を少年は理解している。

 周囲にとっては対象が一人から二人に増えるだけでそれほど支障はない。

(なんて僕は弱いんだ。好きな娘にさえ、正直に助けてあげられない)

 自己嫌悪。

 少年はいつしか眼に涙を浮かべていた。

 悔しさと、そう感じてはいても少女に手を差し伸べる行動をしない自分の情けなさに。

(くそ……)

 少年の視界が、歪んだ。

「ラーレス!」

 突然聞こえてきた明るい声に少年――ラーレスは声をかけてきた声の主に言う。

「クーデリア。そんな声出してどうしたの?」

「わたし、傘忘れちゃったの。だから一緒にかえろ!」

 そう言ってクーデリアはラーレスの手を引いて玄関へと向かった。

「ちょ、ちょっと……」

「あ、レイン! あなたも一緒に帰りましょ」

 クーデリアの言葉にレインが振り向いた。

 その瞳に一瞬喜びが浮かぶが、すぐに色を閉じ込めて平静を装う。

「でも、わたし……」

「なに遠慮してるのよ! 傘ないんでしょ? それにレインと一緒に帰ってみたかったの」

 クーデリアはラーレスにもレインにも意見を言わせなかった。

 強制的にラーレスの傘には三人が入る事になる。

「狭いけど我慢してね」

「僕の台詞だよ」

 ラーレスもようやく自分のペースを取り戻して話し出す。

 ただレインだけが黙っていた。

 宿舎に行く途中でラーレスはある事に気付いた。

「雨が……」

 その言葉に反応して空を見上げると雨が徐々に弱まってきていた。

 しばらくその場に立っていると、やがて雨は止んだ。

 ラーレスは傘をしまうと雲間から刺してくる太陽の光を眩しそうに見た。

「やっぱ晴れてるほうがいいね」

「……うん」

 レインに向けて言った言葉ではなかったが、レインが返答してくれた事にラーレスは喜びを感じた。

「ねえねえ、あの木」

 クーデリアが二人に話し掛けた。指差す先には一本の木。

「あの木ねぇ、ムスタフ先生が提供したやつなんだけど、一つ伝説があるんだって」

「「伝説?」」

 レインとラーレスの声がハモる。

「あの木の下で願い事をすると、一生その願いがかなうんだって」

「ずいぶんありふれた伝説だな」

 ラーレスは呆れたように言う。しかしクーデリアは真面目な顔で言った。

「でも、そんな簡単な伝説だからこそ今まで残ってきたんじゃないかな。

 どんな形でも一つ、一生守っていきたい約束を誓う事で改めて自分達の中で認識する。

 それがずっと続けられたから、まだ残ってるんじゃないのかな?」

「一生の願い、か」

 レインがぼそっと呟く。

 クーデリアは笑みを浮かべて木の下に走っていった。二人はその後を追って木の下に入る。

「ねえ、約束しようよ」

「約束?」

「そう。わたし達三人。これからどうなっても、親友でいようって!」

「……いいな。そうしようよ」

 その言葉はレインに向けられていた。

 レインは戸惑いを隠し切れずに訊いてしまう。

「わたしで、いいの?」

 不安と恐れ。

 それを精一杯押さえつけて発した弱々しい言葉。

 ラーレスとクーデリアはレインの手を握った。

「いいよ」「いいさ」

 その瞬間、レインの眼から涙が溢れた。

 とめどなく頬を伝わって落ちていく。

 レインは顔を俯かせて嗚咽を洩らした。

 もう我慢する必要はない。

 もう、自分は一人じゃない。

「あ、あり、が……」

 その先は、言えなかった。しかし二人には十分に伝わっていた。





「どうして忘れていたんだろうな」

 ラーレスは自分の顔を思い切り殴った。

 予想以上の痛みに顔をしかめる。

「レインが始めて来た時が、俺達の始まりと思っていたんだがな」

 心底悔いていた。

 ラーレスにとって最初の出会いによる一目ぼれの印象が強すぎたのだ。

 自分ではその時に話し掛けてから、もうレインとは親友だと錯覚していた。

 実際、自分達の最初はあの木の下での誓いからだったのだ。

「ようやく思い出した?」

「? クーデリア?」

 後ろから聞こえてきた声に振り向いたラーレスは、クーデリアの横にレインがいる事に驚いた。

「ラーレスもようやく思い出したみたいだし、レインも許してあげなよ」

「……」

 レインは厳しい眼光をラーレスに向けている。

 ラーレスは耐え切れずに視線を逸らして言葉を出す。

「あ、レイン。その……悪かったと、思ってる。許してくれなんて言える立場じゃないけど、どうか……」

「今日の昼食」

「……へ?」

「今日の昼食をおごってくれたら、許してあげるわ」

 ラーレスは顔を上げる。

 レインは笑っていた。ラーレスはその笑顔に心を奪われ、顔を紅潮させた。

「思い出してくれたなら、それでいいわよ」

 レインはそのまま何でもないように振舞う事に努めていたようだが、それもすぐに崩れる。

「……もう、忘れないでよね」

 少々涙声になったのをごまかすようにレインはそそくさと宿舎に戻っていった。

 ラーレスとクーデリアはその後姿が視界から消えるまで見ていた。

「クーデリア。お前、最初から分かってたな?」

「あたりまえでしょ。わたしから言い出したのに、忘れるわけがないわ」

「最初から言ってくれれば……」

「そんな事、意味ないでしょ。自分で思い出すからこそ、今後忘れないんだから」

「……そうだな」

 ラーレスはクーデリアから目を離して空を見上げた。

 内心ではクーデリアに感謝しつつも素直には礼を言えなかった。

 もう一度木を見上げる。

(もう二度と、絶対、忘れないさ。レイン……)

 自分達の大切な第一歩の印である木は、何も変わらずにそこにそびえていた。

 数年後に訪れる『その時』までも――――







『絆――First Step――』 〜Fin〜